街の遺伝子記録
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街の遺伝子と人の想像力

 

人の遺伝子

 さて、 先ほどの「A=B B=C ∴A=C」という思考・知能の方程式では、 小さい頃から学校で学んだりひどい目に遭ったときの経験による学習が思考・知能をつくっていると言いましたが、 あるとき「学習、 経験以外にこの公式が成り立つ要素はないか」と質問されたことがありました。

 実は学習と経験以外の要素間でもこの式が成り立ちます。 それは人間は生前から持っている何かではないか、 それこそが今日のテーマにある「遺伝子」あるいは「DNA」ではないかという気がしているのです。

 我々日本人が親から受け継ぎ、 先祖からずっと伝えられてきた「何か」が自分の体内にあるように感じることが時おりあります。

 例えば僕は世界中どこに行くにもお醤油を持って行きます。 撮影でインドに1ヶ月いたのですが、 とても食べられない味付のときには何にでも醤油をかけて食べていました。 何故こんなに醤油というものが日本人に合うかというと、 やはりそれは親が好きだったとかいうレベルじゃなくて、 日本人が何となくずっと持っている、 体の中に伝えられてきた感覚ではないのかと思うのです。

 また、 世界中の人が同じ物を美しいと思う事が確かにある一方で、 どうしてこんなものが美しいんだろう?と思う事にもいくつも出会います。 そんなとき「これは美しくない、 もっと美しいものを知っている」と思うのは、 学習や経験、 記憶とかによるのではなく、 ずっと体内に潜んでいるものに由来するのではないかと考えると、 やはり先祖代々日本人にずっと伝わっているDNAなどの遺伝情報が何かあるのではないかと感じるのです。

 今人間の遺伝子の解析がどんどん進んでいますので、 これから色々と解ってくると思いますが、 我々特有の五感とか美意識というものは独自にあるものではないでしょうか。

 そこからさらに飛躍すると、 今日の「街の遺伝子」の話になってくるわけです。


街の遺伝子

 都市というものにも、 そういう「遺伝子」のようなものがあるのではないでしょうか。

 我々が町並みや都市景観を見ていて感じる事には、 自分たちがその街に住んでいて学習した事や、 その街を訪ねて経験した事、 それから小さい頃からずっと見てきた街の原風景などの影響ももちろんあるでしょうし、 大切にしなくてはならない事です。 しかし、 街にも街が既に持っているもの、 つまり我々人間でいうところの「五感、 美意識」といった、 自分たちが独自に学習したり経験したりした事以外にも知らぬ間に体の中に先祖から伝わってきているものがあるのではないかと思うのです。

 専門ではないのでよくわからないのですが、 例えば街の歴史です。 その街の由来や歴史なども我々が実際に目で見ることができるわけではありませんがその街自体が持っているものです。 あるいは、 その街にふさわしい地形といったものもあるかもしれません。

 このような街自体が持っているDNA、 遺伝子というものが僕らが街から得た情報や記憶以外にもあって、 またそれはその街に関わる人すべてに影響しているように感じます。

 例えば一つの街をどのようにしようかという時にそんなに考えがあちらこちらにいかないで、 なんとなく考えている街の姿が共通しているような気がするからです。

 例えば僕は東住吉区の小学校に行っていたのですが、 その頃から大阪でオモチャを買いに行くなら「まっちゃまち《松屋町》」、 薬買うなら「どしょうまち《道修町》」と言っていました。 これはある種学習や経験から得た事でもありますが、 それでも「まっちゃまち」にはずっとオモチャ屋の歴史があり、 「どしょうまち」にはずっと薬の問屋があったというのは、 「街のDNA」というものに関わる話ではないかと思います。


街から読み取るイメージ

 映画の特性の一つとして、 映画の力をもって別の空間を創るという事があります。

 例えば「ブレードランナー」という映画で監督のリドリー・スコットが思い描いた20XX年の未来都市は、 モチーフは新宿歌舞伎町です。 そこでは酸性雨がずっと降り続いており、 街の看板には何かよくわからない芸者の写真があったりするといった具合で、 これはこれで新しい空間をつくるときの一つのイメージの有り様だと思いました。

 同じように僕らも映画で時おり異空間のような街を創ります。

 今から見ていただくのは「テイク・イット・イージー」という映画です。 舞台は函館の倉庫街をわけのわからない変な空間にしようということで、 かなりお金をかけて創った架空の街です。 その街のデザインの部分を少し見ていただきます。

 ビデオに映っている場面は函館の有名な倉庫街です。 1985年にこのようなデザインで街をつくりましたが、 その頃の現実の函館の街はまだ全部裸レンガの倉庫街でした。

 それから10年以上経った今、 この街では再開発が進み、 市がレンガ倉庫を改良して、 まるで我々がつくったのと同じような街にしてしまったのです。

 最近、 スタッフと一緒に街を歩いてみたのですが、 ネオンの使い方や、 ライブハウスのありようなど「テイク・イット・イージー」で描いた世界そのままです。 さすがにビデオで見ていただいたようなボクシングジムはありませんでしたが、 とにかくイメージがそのまま映画の街と繋がるまちづくりになっていました。 もちろん映画を観てこうなったわけではないのでしょうが、 同じ倉庫街の風景を見て考える事は一緒なんだと強く感じたのです。

 つまり街が持っている遺伝子とかDNAがあるからこそ、 我々がこの映画でつくった街のイメージと、 この街を観光・商業資源として使おうとした市やデザイナーの発想が全く共通のものになったのではないでしょうか。 どちらもこの街を見た時に、 レンガ倉庫を取り壊してそこに新しい街を建てようとはせず、 何か呼応するものを感じたのです。

 そしてさらに言うと、 人間が持っている五感・美意識といった「遺伝子」と、 都市の持っている「遺伝子」とが、 お互い読み取る力を持っているのではないでしょうか。

 いささかSFめいた話になりますが、 函館の街ヘ行って我々が「街の遺伝子」を感じたという事は、 もう学習や経験によるものではなくて、 何か自分の体の中に感じるものがあるのだという事を体感して、 感動しました。 この感動そのものが、 街に隠された秘密の力と、 人間が先祖代々持っている秘密の力であり、 それが「遺伝子」あるいは「DNA」という言葉で呼ばれるものかもしれません。

 ですから、 ある街について語る時に一つの方向性の範囲内での選択肢があるだけで、 あまり両極端になる事が少ないのは、 その選択肢を決めているのが「街の遺伝子」と各々が自分の中で持っている先祖からの「人の遺伝子」だからです。 それと学習とか経験、 記憶というものが重なって、 街をどういうふうにしようかという話になるわけです。

 大阪の船場や「どぶいけ《丼池》」では都市計画によって繊維問屋が郊外に押し出されてしまった事があるそうですが、 これは人間や街の持っているDNAに逆らった行為だと思います。

 街を考えるときにその街の「DNA」に従うならば、 やはり船場には船場、 「まっちゃまち」には「まっちゃまち」の遺伝子があるわけですから、 その遺伝子を読み取ったうえで、 さらに我々の遺伝子と学習・経験・記憶といったものを足していかなければ、 その街は将来がない、 欠落したものになっていくのではないかと考えます。

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