街の遺伝子記録
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ


近世の大阪の特徴

奈良女子大学 増井正哉

 

住まいミュージアムでの町家の復元

角野

 増井さんは、 建築史、 都市史のご専門で、 大阪市立住まいのミュージアムにも関わっておられます。 そういった経験から船場を読み解いて頂きたいと思います。

増井

画像mi01
住まいミュージアムに復元された大阪の町並み(出典:『住まいのかたち 暮らしのならい―大阪市立住まいのミュージアム図録―』、 平凡社、 2001年)
 私は主に歴史的町並み保存を専門にしています。

 平成13年4月に天神橋筋六丁目に出来た大阪市立住まいのミュージアムの展示のため、 3年ほど前から大阪の町並みの復元設計に関わってきました。 今までは「残っている町家をどう残していくか、 どう再生していくか」をテーマとしてきたのですが、 今回は「何もないところに江戸時代の船場の町並みを復元する」ことが仕事でした。

 スポンサーである大阪市から「京都とは違う大阪らしい町並みにしてください」とリクエストを頂きました。 私は10年ほど前から大阪の街の研究をし、 大阪の町並みにについて本を書いたりしていたのですが、 実際に復元して設計するとなると分からないことが多く、 改めて町屋の意匠などを研究せざるを得なくなりました。

画像mi02
復元の元となった船場のお町内(出典:『住まいのかたち 暮らしのならい―大阪市立住まいのミュージアム図録―』、 平凡社、 2001年)
 住まいのミュージアムでは、 船場のあるお町内の一部を切り取るという想定で再現しました。 真ん中の図の左側、 黒くなっている部分です。

画像mi03
大坂城築城時の街割(大坂三郷市街図、 明暦元年、 出典:『町に住まう―大阪都市住宅史』、 平凡社、 1989年)
 大坂城築城の時に碁盤目状の街割ができ、 北船場と南船場は都心市街地としてきれいに整備されました。 1辺が40間(約80m)四方の整然としたグリッドでした。

画像mi04
明治19年の伏見町と三休橋筋の交差点の連続平面(出典:三浦要一、 中村弘、 増井正哉「近代初頭の大阪愛日学区における伝統的町内空間」、 『日本建築学会近畿支部研究報告集』31、 1991年)
 明治19年の道修町通と栴檀木橋の交差点の連続平面です。 850筆分の町家の平面図が、 愛日小学校に保管されてきたので、 つなげて連続平面図として復元しました。 住まいのミュージアムで想定したお町内は、 この連続平面図を参考にしています。


近世の大阪の町並みは整然としていた

画像mi05
幕末の大阪の町並み(出典:『町に住まう―大阪都市住宅史』、 平凡社、 1989年)
 大阪の街というと、 活発で親しみがあってわいわいがやがやとした町並みを想像しがちですが、 江戸時代の記録を調べると、 非常に整然とした町並みであったことが分かります。

 大阪は建物の高さがそろっていて壁面位置がそろっていたのに、 江戸の建物は高さも壁面の位置もバラバラだったそうです。 僕も意外でした。

 大阪嫌いで有名だった曲亭馬琴さんが近世の大阪へ来て、 「大阪はいい」とはっきり言っています。 そこでは京都と大阪をひっくるめて『京阪』と言っているのですが、 その町並み、 特に船場の町並みの整然とした美しさを強調しています。

画像mi06
『街能噂』に描かれた大阪の家作
 江戸生まれで、 大阪が気に入って数年間過ごしてしまった狂言作家・平塚銀鶏は、 『街能噂』の中で、 大阪の家作は美麗極まりないと表現されています。 ぱっと見ると京都と変わらないような気がするのですが、 軒裏の塗り込めや格子、 むしこ窓が綺麗だと言っています。

 京都と大阪が整然とした町並みだった理由は、 お町内単位で景観建築規制があったからです。 京都では使ってはいけない種類の格子があったり、 壁面位置や軒のそろえ方が決まっていました。 大阪も勝手気ままにつくっているように見えたのですが、道修町では「東から西へ傾斜した道路にあわせて何寸下げて地盤を築かなければいけない」など、 細かい部分まで規制されていました。

 このように、 整然さはお町内などの単位で景観コントロールされた結果生まれたものでした。


街の雰囲気は活発だった

画像mi07
心斎橋松屋呉服店(出典:摂津名所図会)
 これは松屋呉服店です。

 江戸と比較すると、 京都と大阪の町並みはよく似ていると言われていましたが、 細かく見ると違います。 大阪には活発な街の雰囲気があったようです。

 江戸時代半ばのエッセイ集『翁草』で、 「京都の街は一級の商品を通りの全面に並べているが、 大阪の場合はありったけの商品を店先にぎっしり並べる」「京都と大阪の性格を比べると、 大阪が‘陽’で京都が‘陰’であって、 それは地形と関わっている」と書かれています。

画像mi08
個性的な町家の意匠(出典:『浪花のながめ』(安永7年、 1778年)より)
 『浪花のながめ』から、 ランドマークになる町家をピックアップしました。

 安土町心斎橋筋には破風造りの家があり、 島之内中橋筋には丸太造りの家がありました。 さらに、 あわび貝の戸の家や蠣殻の屋根の家など、 ちょっと目立つ家があったんです。

 高さや軒高、 庇の長さなど、 決められた枠組みの中で材料や看板などに趣向を凝らす。 これが大阪の町並みの一つの特徴だと思います。

画像mi09
特色のある町並み
 当時の建築群としての町並みのおもしろさも見逃せません。

 当時の記録をみると、 伏見町通は茶道具を売っている店で、 格子構えからそれが感じ取れたようです。 本町は呉服の古着を扱う街だったので、 どうしても盗品が入ってきます。 それを商品にしないように、 3日間軒先に古呉服を吊るしていました。 その間にクレームがでないかどうか確かめないと売ることが出来ませんでした。 『摂津名所図絵大成』によると、 そのために軒が深くなっていたということです。

 高麗橋辺りも同業者町です。 岩城桝屋や三井越後屋のようなビックビジネスが立つことによって周辺に関連商店が集まり、 当時の地誌にのるような特徴ある町並みになっていった経過があります。

 このように、 同業者町ごとに景観上のイメージを持っていたのです。

画像mi10
大坂町三丁目のしつらい(出典:『住まいのかたち 暮らしのならい―大阪市立住まいのミュージアム図録―』、 平凡社、 2001年)
 近世の大阪は、 お町内によるコントロールと、 町に住んでいる人の「ちょっと目立とう」という気風、 そのバランスが魅力でした。

 一方、 京都の街では、 コントロールを突き破って目立とうとするよりも、 デザインの関心を建物のプロポーションや仕上げ、 内部空間に向けます。 隣近所とのことを考えて目立たないことをよしとする気風が町並み全面にでています。

 二つの都市を比較すると、 大阪の活発さが伝わってくると思います。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見はJUDI

(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai

JUDIホームページへ
学芸出版社ホームページへ