「市中の美麗家作のありさま、 他国の及ぶところにあらず、 実に是繁栄他郷にならびなき大都会の名地なり。 」天保期、 大坂城勤番として1年を過ごした平亭銀鶏は、 その著書『街能噂(ちまたのうわさ)』で、 大坂の町並みをこのように紹介している。 ここでは「他国の及ぶところ」ではなかった近世大坂の町並みが生まれた背景を、 京都と比較しながら考える。
喜多川守貞による『守貞謾稿』は、 江戸・京都・大坂の比較都市論ともいうべき文献であるが、 町並みについて、 「江戸市街は(中略)、 民居の列高低ありて自ら一覧紛々」たる景観であるが、 京都・大坂は「民宅高低なく、 一望整然」とした景観を町並みの特徴と述べている。 さらに個々の町家も「毎戸そのつくりをはなはだ異にする」江戸に対し、 京坂の町家は「大略大同小異」であったという。 京都・大坂で、 こうした整然とした町並みの形成と、 「町」共同体による景観の自己管理が深く関わってきたことは、 よく知られている。
ただ、 江戸と比べたときには同じように見えた上方の町並みも、 京都と大坂を並べて比較すると、 そこには自ずと違いが見られた。
まず、 京都の町家に例をとると、 その表構えはきわめて定型化されている。 近世初期の町家の意匠は多種多様で、 およそ定型をもたない。 定型化が顕著になるのは近世半ば以降で、 格子の意匠や壁面の仕上げなど、 きめ細やかに洗練されていく。 江戸では近世後期に箱棟の大屋根で重厚な塗屋が防災上奨励され、 商人の富を誇示するような意匠として大いに建てられたが、 京都では幕末まで建てられなかった。 近世京都では他都市と比較して、 地域社会にあって「目立つ」ことをよしとしない「気風」があり、 甍を競うような建家のあり方が流行らなかったようである。 周囲の町なみ意匠に合わせることに重きをおき、 構成要素のプロポーションや内部の造作に力をいれたのである。 こうして京町家の表構えの意匠が定着していった。 こうした気風は、 平安京の解体以来培われていた「町」共同体を媒介とする、 住民どおしの交渉のなかで育ったものであろう。
大坂町家の個々の外観は、 京町家のそれによく似ている部分もあるが、 京都と大坂の町並み景観には大きなちがいがあった。 『翁草』によると、 京都では店先に上等の品を並べず、 そこそこの商品を少しばかり並べるため、 町並みがさびしく見えるが、 大坂ではあるだけの商品を店に広げるので、 いかにも繁盛しているように見えたという。 本書はその背景を「京大坂の気質」が「陰陽相分る」ためとしている。 また、 広い大坂にあっては、 地域ごとの特徴もあった。 茶道具の集まる伏見町は格子構えが多く、 唐物問屋が多い平野町は表揚げ店構え、 北浜、 今橋通は「巨戸豪民」の町並みであった。 商都大坂では、 生業のあり方も直接町並み景観に関わったのである。 『摂津名所図会大成』には、 本町の古着問屋街の景観について、 古着屋の慣習として、 古着が盗品でないかどうかを確かめるため、 三日間、 軒先に吊した。 その「余風」のため、 軒が特別に深い町並みであったという。
また、 『浪花のながめ』は大坂案内記のひとつであるが、 屋根に櫓をあげた町家、 庇を蠣殻で葺いた町家、 窓の戸が鮑でできている町家などが紹介されている。 これらは、 ひときわ個性的な存在であり、 町並み景観を特徴的なものにしていた。
大坂では、 意匠としての完成度の高い町家の表構えにあっても、 もっとおおらかに個性的な要素を持ち込んだのである。 これが、 まさに大坂の「気風」の反映である。 大坂人の闊達さは今に通じる気風であろう。 そして、 それは現代の都市景観にも反映しているのではないだろうか。
パネルディスカッションに向けて
街の整然・気風の闊達
―近世大坂の町並みにみる―
奈良女子大学 増井正哉
増井正哉(ますい まさや)
奈良女子大学生活環境学部助教授。専攻、建築住居史・保存修景計画。1955年大阪生。80年京都大学工学部建築学科卒業。82年同大学院修士課程修了。86年同大学院博士後期課程修了。京都大学工学部助手を経て、現職。工学博士。著書に『まち祇園祭すまい―都市祭礼の現代―』(共編、思文閣出版)、『住まいのかたち・暮らしのならい―大阪市立住まいのミュージアム図録』(共編、平凡社)、『まちに住まう―大阪都市住宅史』(共著、平凡社)、『ラニガトー京都大学ガンダーラ仏教遺跡総合調査報告書1983〜1992』(共著、京都大学学術出版会)など。
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