かたちと関係の風景デザイン
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街並みへの自己表現としての色彩

 

〜函館のまちづくりから〜
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Heavy EnvironmentとLight Environment
 ケヴィン・リンチと同時代のアメリカの環境デザイナーのD・アップルヤードが「社会的シンボルとしての環境」という論文のなかで、 Heavy EnvironmentとLight Environmentという概念をだして、 地域の生活環境を分析しています。

 Heavy Environmentとは都市の構造や機能、 大規模な開発など、 個人の力を超えたところで決まる環境をいいます。 一方Light Environmentとは、 住宅の窓に花を飾ったり、 建物外壁のペンキを塗り替えたり、 芝生の手入れや花を飾るようなことで、 日常の生活のなかで住民が直接働きかけ、 自分で変えようと思えば変えられる環境をさします。 彼は地域の環境の質の評価において、 Light Environmentが街区や街路のような都市構造と比較してけっして小さい意味のものではない、 ある意味より重要だということを述べています。

 函館の街並み色彩は、 Light Environmentのいい例だと思います。

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修復された旧函館区公会堂
 函館は幕末に横浜や神戸と並んで開港場として位置付けられ、 直接都市づくりのなかにアメリカやヨーロッパの文化が入ってきました。 この洋風文化を背景にまちがつくられてきたのです。 明治43(1910)年に建てられた重要文化財の旧函館区公会堂は、 昭和58(1983)年に修復されましたが、 創建時の色に復元された外壁は黄色とブルーグレーの大変鮮やかな色彩となりました。 それまで塗られていた白に近い色に比べ、 その時の色の変化の印象はとても大きく、 函館の市民にとって事件ともいえる出来事でした。

 元町界隈のまちづくりに取り組む市民グループ「元町倶楽部」で、 公会堂や同じようにペンキで外壁が塗られた町家の色が話題になり、 「戦前の函館はもっと大胆な・ハイカラな街並みの色があったのではないか」との仮説がたてられました。

 函館には、 戦前に建てられた町家がいまも西部地区にはたくさん残っています。 その様式は洋風と和風の折衷様式で、 しかも、 上下に折衷されています。 1階は京都にあるような和格子で、 2階が洋風の下見板張りに上げ下げ窓の意匠です。

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時層色環の発見
 われわれの仲間がおもしろいことを発見しました。 町家の窓枠の隅に塗られたペンキの層が厚く重なっているのです。 削っていくと昔の色が残っているのではないかと考えました。 。 街中に残っていた建物で、 意匠的にも色彩的にも面白いものの外壁をサンドペーパーでこすると(「こすりだし」という)、 昔のペンキの色が層になってでてきたのです。

 多いものだとペンキの色が21層あります。 あまりに多いのでびっくりしました。 これを「時層色環」と名づけました。 大町郵便局の外壁には13層の色がありました。 3代目局長夫人が千葉にご存命で、 お話を伺うと、 戦争末期の昭和20(1945)年は灰色だということを覚えておられました。 戦争末期は防空法があって公共の建物、 大きな建物は迷彩色や灰色に塗るという法律があったのです。 戦後昭和22年には黄色に塗り替えています。 その後、 薄い緑色の時代もあり、 昭和56(1981)年からは、 壁がアイボリーで窓が焦げ茶色の塗り分けの色彩になりました。 この塗り分けの色使いは公会堂が近いのでその影響があるのかもしれません。

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五つの時代区分とその時代色
 このようなヒヤリング調査やペンキ材料の化学分析なども行い、 85棟の建物について、 色彩変遷のチャートをつくり、 そのデータを地図に落としていきました。 そこから分析して、 函館の街並み色彩に大きな5つの変化の傾向が読みとれることがわかりました。 明治初期はペンキが輸入品に限られていたことがあり、 白、 アイボリーが多い時代です。 明治後半から大正から昭和になると色合いが濃くなり、 種類も多くなります。 最近、 明治時代の函館の風景を写した彩色絵葉書を発見しましたが、 それを見ると函館の西部の街並みは、 明治後期にはアイボリー、 赤茶、 薄緑などの色に町家の下見板が塗られています。 仮説がはずれていないことを確認しました。

 戦時中は、 防空法の影響でグレーや迷彩色の多い時代、 戦後は一転パステル色が流行し、 ここ20年ぐらいは壁と窓枠や柱をアクセントカラーで塗り分けるスタイルが流行しています。

 このように函館の街並みの色は時代とともに変わっています。 そしてそれは街の中に面白いエピソードとして住民の暮らしのなかに記憶されていることもことも分かりました。 「娘が生まれたので、 函館の女学校の色をまねてピンクのかわいらしい色を選んだ。 それが近所に評判がよくて隣もそのような色に変わった」とか、 「港をイメージする明るい水色に塗った」とか、 「公会堂の色にあこがれて」など、 それぞれの住み手が個人の好みだけでなく、 街の暮らしや街並み、 シンボル的な建物に影響を受けて、 自分の建物の外壁の色を塗っている、 環境のなかで街並み色彩がかたちづくられてきたそういう背景が読みとれるのです。

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ペンキ塗り替えボランティア隊
 この函館の街並みのペンキ塗り替えも、 かっては塗装業者が自転車にのってまちをまわりながら、 持ち主と相談し下見板を塗り替えるなどの地域の伝統がありました。 しかし今はそういう地域の維持管理の仕組みはありません。 そこで街並み色彩のペンキ文化を継承する新たな仕組みとして、 毎年夏休みに、 大学生や高校生のチームがボランティアで壁の色を塗り替える活動が1990年より行われるようになりました。 痛んだ下見板の壁の色が塗り替えられると、 建物だけでなく、 持ち主の気持ちまでもが、 生き生きとよみがえります。

 こういうボランティア隊や元町界隈の市民のまちづくりを支援していこうと、 街並み色彩研究からえた賞金で、 「函館からトラスト(正式名称:公益信託函館色彩まちづくり基金」が1993年に誕生しました。

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室内からのライトアップ
 函館からトラストの助成活動の中からいくつか、 ご紹介します。 これは夜間景観研究会というグループの活動です。 函館山からの夜景は観光的に有名ですが、 街並みレベルでは歴史的建造物がライトアップされています。 しかし、 「建物の外から光を当てているだけでまるでデスマスクに光を当てているようだ。 本当は生活の灯りが室内から漏れていることがライトアップの楽しさなのではないか」という視点を研究の出発点にしています。

 活動では、 路地と、 それに面した町家の室内から生活の灯りを漏れさせる実験などを行っています。 なかなかお洒落な研究です。

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海外との比較
 また街並み色彩調査では、 震災の直前の1994年に神戸の異人館群の調査を行っています。 神戸のケースでは、 調査時点では多くの建物が同じ様な色彩に塗られていましたが、 こすりだしとヒヤリング調査から、 創建時や戦後は、 建物毎にそれぞれかなり違っていたことがわかりました。

 同様にアメリカのボストンやサンフランシスコ、 ノルウェーのベルゲンでも街並み色彩調査を行ってきています。 詳しい理由はまだ分析できていませんが、 函館と同じように時代につれて建物の外壁色彩が変化していくことは確認しています。

 最後に、 「街並みの色彩を含めて、 住んでいる人が風景や街並みに自己表現できる手段、 個人と街並みの関係をつなぐ手段を発見している地域は、 訪ねても楽しい風景をもっている都市という」ことで、 今日のお話しの締めくくりとさせていただきます。

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