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熊野三山について

 

 この熊野三山で世界遺産の核として登録されたのは、 熊野本宮大社、 熊野速玉大社、 熊野那智大社、 青岸渡寺、 那智の大滝とそれを育んだ那智原始林、 那智山への入口にある補陀洛山寺です。

 熊野本宮は明治22年の水害に遭うまでは、 熊野川の中州に建てられていました。 なぜそんな所に祀られたか不思議ですが、 それ以前に水害の記録がなかったことから推察すると、 洪水鎮圧のための神様として祀られたのではないかと私は考えています。

 熊野速玉大社も「速玉」という名前から察するに、 熊野川の勢いのある水の流れを神様としてあがめたという性格があるんじゃないかと思います。

 また「神倉山」という山には大きな岩があり、 人々は「ゴトビキ岩」と読んでいますが、 神様が降臨するための磐座として昔からあがめられています。 そんな風に昔の人には、 深い山や大きな木、 岩に神様が降りてくるという観念があったんです。 もっとも誰も神様なんて見たことがないから、 もっともらしく儀式をしてお供えをしているうちに、 そんな観念が出来上がっていったんだろうと思います。

 「神倉山」が元宮で、 そこから新しく「里宮」を作ったので「新宮」と呼んだという伝承もあり、 「山宮」に対する「里宮」が存在したと言われますが、 私はもっと古くは熊野川の水の勢いを神様としてお祀りしたのではないかと考えています。 どちらにせよ、 熊野川流域がそういう観念を育む信仰環境を持っているんだろうと思います。

 熊野那智大社には、 よく知られた那智の滝があります。 垂直に落ちてくる滝としては日本一と言われていますし、 同時に日本一の修行道場でもあります。 本来は滝そのものが御神体だったのでしょうが、 修行僧が入ってくるにつれて段々と仏教的な色彩を帯びてきます。

 昔の記録によると、 那智の滝の岩壁には仏様が彫られていたそうです。 多分、 地震で崩れ落ちてしまったのでしょうが、 1185年頃、 ちょうど源平合戦の頃で世情が不安だった頃にそうした記録があります。 もちろん記録には地震で崩れたという話はなく、 那智山に強盗が入った時に岩壁の仏様が崩れ落ちて、 滝壺が金ぴかに光ったという話が出てきます。 当時は金色の磨崖仏が彫られていたという証です。

 私が面白いと思うのは、 神社の御神体である那智の滝に仏様が彫られたという、 神仏習合の行為がこの頃からあったということです。 御神体そのものに仏様を彫るというのは、 今では考えにくいことです。

 また那智山には青岸渡寺があります。 那智大社と隣り合わせのお寺で、 神仏習合なのがよくわかります。 西国三十三観音巡礼第一番の札所です。

 ここの本尊は如意輪観音で、 インドからやってきた裸形上人が那智の滝で観音像を発見したという言い伝えがあります。 ちなみに那智大社の本地仏は千手観音でして、 那智の滝を中心にしながら別々の信仰が発祥しているとも言えます。 でも同じようにお祀りされてきました。

 つまり、 神社でお坊さんがお経を上げている光景が普通なのでして、 それぐらい神仏習合が進んでいました。 神仏習合は多かれ少なかれ日本全体で見られることですが、 特に熊野はその傾向がはなはだしかったということです。

 さて、 高さ133mの那智の滝ではいろんな人が修行をしてきました。 後で説明しますが、 曼荼羅図に書かれている文覚上人という人は寒いときに修行して凍え死にそうなったとき、 不動明王の使いの童子が現れて救ってくれたという逸話があります。 もちろん本当に133mの滝に打たれたら大変なことになってしまいますので、 本当は那智の滝の下にある「文覚滝」という2、 3mの小さな滝の下でやってきたのです。 お詣りしたときはぜひともこの滝を見ていただきたいと思います。

 こうした歴史を持つ那智の滝を育んできたのが、 那智原始林です。 最近では「原生林」と呼ぶのが正確らしいのですが、 世界遺産の登録名称では「那智原始林」となっています。 この中に入ると大きな木がいっぱいあり、 熊野独特の樫や椎の照葉樹林となっていて、 いろんな植生を感じることができます。

 最近は奥地でかなり民有林となって伐採が進んでいて、 那智の滝が枯れるんじゃないかと心配されています。 これには地元もかなり危機感を持っていて、 今は基金を募ってこの原始林を守ろうという運動が展開されています。

 また、 那智の入口には補陀洛山寺があります。 このお寺は観音さんのいる理想の浄土世界「補陀洛山」から名前をとっています。 補陀洛山は南の海のかなたにあると言われ、 インドのあたりだとか中国の南の方だとかいろいろ言われていますが、 なんと昔の人は小さな舟で本当にそこへ行こうとしたんです。 那智の滝で3年間の千日修行を積んだ上で、 30日分の食料と油(これは灯明用だと思われます)を舟に積んで海を渡っていきました。 これを「補陀洛渡海」と言います。 北風の吹く11月に、 お坊さんたちは出かけたと記録には記されています。

 補陀洛渡海の事例は全国で50例ほどありますが、 そのうち26例が熊野那智発でした。 もちろん、 その消息は全然分かりません。 でも一人だけ沖縄に漂着した日秀さんというお坊さんがいました。 熊野信仰を沖縄で広めたあと鹿児島へ渡り、 今度は土の中に入る「入定(にゅうじょう)」というのをやりました。 2回死んだというわけで、 大変なことをする人がいたもんです。

 4年ほど前に「南紀熊野体験博」があったとき、 補陀洛渡海者を全国から募集しましたが誰一人として応募してきませんでした。 今、 世界遺産登録の記念イベントとして青岸渡寺の副住職の高木亮英さんを海に流そうと企画していますが、 本人は逃げ回っていて未だに実現していません(笑)。 実現したら、 すごいニュースになります。 みなさんもいかがですか(笑)。

 そんなわけで、 熊野那智は観音信仰の一番の修行道場として知られる所だったんです。 そういう意味でも大事な場所です。


熊野信仰とは何か

 熊野信仰とは何かとよく聞かれるのですが、 ここでなぜ熊野信仰が盛んになったかを考えてみたいと思います。

 日本には南に対する信仰が古くからあるのですが、 熊野は都から見てちょうど南の方向にあたります。 そして行くのに適当な距離だったことも重要だったのでしょう。 日本には出羽三山を始めとして各地に山岳霊場がありますが、 上皇や貴族は誰も行ってません。 当地にしてみれば「ラッキー」と言ったところでしょうか。

 もちろん「行きやすさ」だけがポイントではなく、 熊野には自然がよく残っていることも都の人間が行きたくなる理由のひとつです。 山が急峻で滝が落ちていて清流が流れ、 海も見える。 今でも、 そうした日本の原風景が残っています。

 ただ、 地元の人自身は「熊野の自然は素晴らしい」と言われても、 毎日見慣れている風景のせいかピンときません。 東京から来た学生さんが「きゃあ、 海がきれい」と叫んでも、 昔のもっときれいだった風景と比べてしまうせいか、 「いや、 今日はまだ濁っている方です」と、 しらけた口調で答えてしまうようなところがあります。 昔は本当に熊野川で鯖ぐらいの鮎が捕れました。 本当に。 今の痩せこけた鮎と比べると、 本当に大きかった。

 つまり、 豊かな自然があり、 そこに神々がいらっしゃるという日本的な聖地環境がありました。 それを未だに保っているのが熊野だろうと思います。

 そして平安時代には山岳信仰が盛んになり、 まず山岳信仰の道場となりました。 浄土信仰が盛んになると、 熊野が仏の理想世界、 現世の浄土であるという見方をされるようになったと思います。 ですから熊野にはまず修行僧が来て、 その教えを王侯貴族に広めたという流れがありました。 修験道の根本道場となったのもその理由からです。 ですから、 元々は神社として発生したのが、 相当早くから神仏習合の霊場となりました。 もちろん日本全国でそのような傾向があるのですが、 熊野はひときわそれが顕著なんです。

 どれだけ上流階級の人に影響を与えたかというと、 上皇の身分の人で百回ほど熊野に来られたという記録があります。 この時代の交通事情を考えると、 よくこれだけ来たものだと不思議に感じることもあります。 背景を考えると、 山伏の修行が山に何回登ったかが勲章になったことから、 そうした風習が広まったのではないかと思われます。 熊野詣での回数を競うことが定着していったのでしょう。 後白河法皇は34回も来たそうです。

 さて熊野詣での目的ですが、 資料的には「現当二世」、 つまり現世と来世の幸せを祈ることだとされています。 現実には、 現世利益の祈願が強かったようです。 11世紀の初め頃に「目の病気が治った」という貴族の史料が出てきますので、 熊野はどうも眼病によく効く霊場だったのかと興味深く思っています。

 また、 熊野は浄不浄を嫌わない懐の広い聖地(古道を広大慈悲の道ともよんでいます)でもありました。 別の言い方をすると、 やはり熊野は遠いところですし、 「誰でもいいからお詣りに来て下さい」というところだと思います。 「浄不浄を嫌わず」とは一遍上人が言った言葉ですが、 庶民に信仰を広めるためには、 とても大事なポイントだったようです。

 「蟻の熊野詣」という言葉は15世紀の資料に出てきますが、 平安時代と違って中世の室町時代にはすっかり庶民の間にも熊野詣でが定着していたからこそ出てきた言葉だろうと思います。


熊野参詣道(熊野古道)

 
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図2 熊野参詣道と各王子社(『鵜殿村史』より)
 
 熊野にお詣りするための参詣道、 いわゆる熊野古道について説明しておきます。 もともとは地元の生活道だったものが幹線道としてつながっていったのだろうと思います。 よく地元の人で「わしの家の裏にも熊野古道がある」と言う人がいますが、 薪を採るための生活道だったものは古い道であっても熊野古道とは言いません。 熊野古道は参詣道という役割があった道で、 幹線道路だったんです。 もっぱらよその人が通る道、 今の道で言うと高速道路みたいなものでしょうか。

 参詣ルートは図2に示したように、 京都・大阪から来る紀伊路、 伊勢から来る伊勢路、 もっぱら山伏の修行のための大峯道という三つの参詣道があります。

 紀伊路に入るとそこでも三つの参詣道に分かれ、 田辺から山に入る「中辺路」が上皇貴族がよく利用したメインルートでした。 伊勢や高野山回りで来ることは一切なく、 道々に祀られている王子社(熊野の神様の子どもたち)をひとつひとつ拝みながら精進潔斎の旅を続けたようです。

 大辺路は田辺から串本、 浜の宮という海岸線を回るルートで、 長い道のりを行く参詣道です。 その代わり、 大変に風光明媚な道で、 江戸時代から文人墨客に愛された道のようです。 中世にこの道の記録はありません。

 小辺路は高野山から本宮に行く道で、 三つの道の中では一番短い距離です。 特に大阪からは行きやすかったようで、 大阪商人などがよく使った道です。

 伊勢路は古くから使われた道ですが、 おそらく室町時代以降は西国巡礼の人たちが伊勢参りの後、 熊野三山を巡って二番の紀三井寺に行くという風に使われたようです。 もっぱら東国の人が利用しました。 西国というのも東から見て西の位置にある霊場のことを言うんです。

 大峯道はプロフェッショナルの山伏が修行した道です。 これは厳しいです。 私も何回か行ったことがありますが、 行くたびに「もう二度と来ない」と思うほどしんどい道です。 山伏修行の後は三山へお詣りして、 京都のお寺などに帰って行くわけですから、 これも参詣道と言えるでしょう。

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