・名称:なにわことばのつどい
伝統を守る なにわの会
・地区:船場
・組織:
「なにわことばのつどい」会員約200人
、このうち
「伝統を守る なにわの会」約50人
1985年バブルの真っ只中
20年前の記憶を辿る。
船場・道修町の一画にある喫茶店「門」の2階に私たちはいた。私たちとは、既に亡くなられた紙野阪大教授や設計事務所ヘキサの中筋さん、そして現立命館大教授の高田さん、青年会議所の方たち等。そしてこの日は「船場ことばを守る会」(であったように思う)の活動をなさっていた当店の清水路子さんや、和菓子の老舗鶴屋八幡のご主人などを囲んで、お話を聞いたのである。
歴史都心である船場は、かつて繊維や金融の中心として大阪の繁栄を築いた街である。そこでは商家の家族と奉公人の多くが住み、商いと同時に豊かな生活文化の香りが漂っていた。「船場ことば」はその中で洗練された生活文化の表象の一つであった。
時はうつろい、かつて数万人が暮らした船場も今や夜間人口4千人を割る。夕方6時になるとのなくなる都心、道修町。当然人の住まない街から、伝統的な文化も言葉も消えて行く。清水さんは昭和50年ごろから、音と記録を書き留めてきた。そして、消えゆく船場ことばを守り残そうとして活動を始めた人たちは、独自の「かるた」を創り、伝承手段とした。
何故このグループの人たちと合うことになったのかには理由がある。一つは、住む人のいない都心への疑問。これは異常ではないか。二つは、都心に人を呼び戻すために、どうすればリーズナブルな住宅を供給できるか、という課題への挑戦。当時、住・都公団(現都市再生機構)で、こうした模索を始めていた。おりしも中筋さんたちによるコーポラティブハウス「都住創」(都心に住宅を創る会)の活動が実績を挙げていた。
そこで公団は、都心で活動する人たちに意見を聞く、いわば市場調査を行ったのである。しかしこの試みは、
バブル経済によってあえなく挫折した。「都住創」が都心
から撤退宣言をする前夜であった。
20年が過ぎても続く活動
住む人のいない街で、ことば文化を残し伝えることが果たして可能なのか。ある空しさを覚えたのも事実であるが、だからこそ都心に住む人を呼び戻したい。私たちの気持ちは一層強くなった。そう思い続けて20年、待望の南船場に公団賃貸住宅を完成させることができた。 やっと清水さんを訪ねる気持ちになった。
訪ねて感動した。今も船場をこよなく愛する人たち、船場の文化を伝えたい人たちが、活動を継続していた。「なにわことばのつどい」は現在会員約200人となり、幅広い活動をされている。そのうち「伝統を守る なにわの会」は約50人で、船場ことば、なにわことばに拘り続け、3月に1度の例会を今も続ける。当然、会員の高齢化は避けられず、最高齢80歳の方も。しかし最近ある大学の学生が「船場ことばの研究」を論文にしたように、若い人達に少しずつ伝わっていく感触を持った。
そして清水さんは最近もNHKラジオ深夜便で、船場ことばの語りを続けている。
かつてこの喫茶店「門」の土地には銭湯「芦の湯」があったとか。風呂に入った後、夜鳴きそば屋の屋台で世間話が飛び交った話を書き留めた。「ことばは暮らしについてまわる」。かつて船場の伝統的な暮らしのなかで培われたことばを、文化として守り残そうとする意思はますます強くなる。今は大阪ことば辞典にも載っている「もったいない」ということばに、気持が惹かれる。
あれから20年、バブルは崩壊し地価下落は住宅開発を都心でも可能にした。人口は微増し始めた。都心に定着人口が増えることは間違いなく望ましい。しかしそれが「船場ことば」の継承に繋がる道筋は、まだ見えてはいない。それでも30年以上コツコツと続けてきた船場が大好きな人たちは、ここでいう「まちづくりの新しい担い手」ではないかもしれない。しかし街の記憶を記録し、次世代に伝えたい思いの「担い手たち」が確実に都心にいて、一つのスタイルをもつこの会に、「新たな担い手」としてのエールを送りたい。