都心のまちづくり その担い手
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まちの担い手の変遷

 

 都心にたくさん人が住んでいた時代、誰がまちづくりの担い手だったのでしょうか。それは間違いなく公共でした。大阪市の市街地改造がその典型例です。道路などのインフラを作り、建物を近代化し、高度化していくことが公共の役割で、これが、ある時代までのまちづくりの流れでした。

 しかし、その流れは消えてしまいました。かつてたくさんの人が店や事務所を開き、まちを形成しており、その人達の間を路線防火帯や防災街区などの形でつなぐことが再開発の目標であった時期があります。商売をどうするか、その商売を支えるために不動産価値を上げるということが、防災街区の発想の中にもありました。

 しかし、都市計画法の改正にあい前後して都市再開発法が施行され、市街地再開発事業が行われるようになった途端に、商売は二の次で、不動産事業としていかに稼ぐかという方向に変わってしまいました。

 その結果、市街地再開発事業による再開発の多くは、現在、全国各地で痛い目にあっています。家業として商売してきた人が、不動産の不良債権化に伴い、立場を維持できなくなるということが起こっています。

 しかし、ある時まではそのような流れが近代化であり、まちづくりや都市計画の良い方向だと思われていたのです。そして参加と言えば、地権者の言うことを聞けたかどうかが問題でした。そのような再開発事業は地権者の調整で疲れてしまい、デザインは二の次で、出来上がりさえすれば良いという状況だったのです。したがって、素晴らしいデザインだという形で残っている再開発事業は恐らくないと思います。

 小さな単位で土地をもちあい、まちをつくりあってきた中に、公共が介入し、一つの開発の規模を拡大しながらやってきた流れがありました。その時の都市づくりの担い手は公共でした。そして、その背後には、ゼネコンや銀行、生保等が、経済的な不動産事業にするために先行投資をしていたのです。このように、表は役所や組合ですが、裏では企業がこれまでのまちづくりを支えてきたと言えるのです。

 1970年代後半以降、日本の民間資本が力をつけてきました。そして、1980年代の中曽根民活の時代になると、民間ディベロッパー主導でまちを変えていこうということが国是となっていました。欧米でも、レーガンやサッチャーの時代に、そのような試みが10年くらい実施されました。しかし、すぐに間違っていることに気づき、1990年代には方向転換されました。しかし、日本は未だに1980年代の流れが続いています。規制緩和や民活から抜け出せていません。その結果デザインから見るとまちは惨憺たるものになっているのです。

 このような民間資本の力が自由に動けるようにする構造も一因となり、まちの中心部から大きな商業機能が郊外に出てゆきました。大阪のように集積があると、都心が衰えているという認識はありませんが、地方都市では先ほど定義した都心地域はたくさんある核の一部に過ぎない構造になっています。都市圏の構造が散逸・消失してしまったのです。

 これまでのように中心都市の周りに同心円状にまちができ、地域のアイデンティティの象徴であり、家庭以外で立ち寄る居場所であり、人々の心のよりどころであった都心はなくなっているのです。大阪の中で、そのような居場所はどこかを考えてみてもらいたいと思います。東京では、もはや都心は居場所ではなく、多極間を選択的に歩くだけの場所になっています。

 このように、1980年代以降、担い手の主力は民間資本に移りました。そのため、東京集中になり、東京だけは国際資本が流れ込み、高度化し、バブル再現のような姿が見え始めています。このような問題を我々はどのように考えていけば良いのでしょうか。

 一方で、自分達で考えようということで、参加型でやろうとした場合、どこまでを参加の範囲と考えたら良いかという問題があります。つまり、誰の参加がまちのデザイン決定のベースになるのかということです。特に、東京のように、広い範囲に影響を与える場合に大きな問題となってきます。

 このように、現在は、具体的にどのようなことが生じ、誰がデザインコントロールするのかが見えない状況です。しかし、少しずつではありますが、世の中が変わってきています。

 私が建設省を出て20年が経ちます。建設省で働いていた時代から考えると、現在、大きな変化が生じてきています。それをデザインの観点から、どのように理解して社会的仕組みを変えていくかが我々の仕事になっています。

 昨年は日本の都市開発の分岐点でした。

 一つは、地方自治法によって都市計画や住宅政策等の権限が地方にあるということが明示されたことです。現在も中央官庁はお金もあり、優れた人がいるため、人事面も動かしてはいますが、通達や指導はできなくなりました。地方の人は相談にも行けなくなっています。現在、国交省に行っても図面を広げて相談に来ている人は一人もいません。仮に、地方自治体の専門的な経験をもった人が地方整備局に相談に行ったとしても、人事の仕組みの関係でそのことを理解している人が必ず配置されているとは限りません。地方が都市計画やまちづくりを自身の手でやらざるを得ない構造になってきたのです。

 もう一つは、景観法が成立したことです。これまでは、経済的価値だけが優先され、文化的価値はないがしろにされてきました。中曽根民活以来、小渕内閣の経済戦略会議などを通し、一貫してきた資本優位の政策が、景観法により変わってきたのです。景観法が実際にどのように使われ、世の中をどう変えていくかはまだ未知数です。しかし、明らかに新たな価値が国のレベルでも問題となり、そのような方向に動かざるを得なくなってきたのです。そして、かつては白い目で見られていたような考え方が、常識になってきました。

 このような背景のもと、これからのまちづくりや都市デザインが面白くなってくると思っています。

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