都心のまちづくり その担い手
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幕張の事例

 

 もうひとつの具体的事例として、幕張を取り上げます。

 幕張はヨーロッパ型のまちを実験的につくろうとしたものではありません。21世紀型のサスティナブルな形で住宅を作ること、また、ジーバーツのアゴラのように近隣生活を大切にしながら、皆が地域社会を大切にするような仕組みでまちをつくることを突き詰めていき、時間の変化と共に変わっていく構造や表通りの賑わいと裏の静けさという表と裏の構造などの様々な要素を組み合わせると、結果的に沿道中庭型になっただけなのです。

 同様のことがヨーロッパでも起こっていました。かつてはコルビジェ型のオープンプランこそが20世紀型の都市だと信じていた人達が、1970年代頃から、昔のコンテクストを生かした沿道中庭型の方がクオリティが高いことに気づき、方向転換をしたのです。しかし、日本にはそのようなモデルがないため、誰もその良さを具体的には実感できませんでした。

 また、現在の大雑把な基準で住宅地を作っていこうとすると、中層内庭型モデルは儲かりませんし、丁寧なデザイン調整が必要となり、手間がかかってしまいます。これまで他でできなくて幕張ベイタウンでできたのは単純な理由です。いくら都市デザインガイドラインを作ろうと、区画整理をして敷地を民間に売った途端に、もっとも儲かる形でもっとも売りやすい形でものが建てられてしまいます。市場が確実に皆の新しいニーズを吸収しながら商品を出す構造になっていれば良いのですが、都市開発の分野ではそのようなことをやるとリスクが大きくなってしまいます。したがって、一般市場からは良いモデルが出てこないのです。

 幕張ベイタウンができたのは企業庁が乱暴かもしれないがとにかくやってみようということで進めたこと、また、ルールとルールを守る仕組みを作ったことです。基盤整備だけやって敷地をばらして敷地主義でものをつくってはだめなのです。ものをつくる時に、全体としてどうなるかという基本的なルールがあって、そのルールに従ってものができるような仕組み、ルールを守らせるための手段が必要なのです。幕張では、事業者を決めるときに、基本協定を結んで、事業予定者と位置づけました。そして、事業を実施するために土地の権利を移転する時期は、建物の設計が終わり、設計調整者の審査を合格し、本契約である街区協定が結ばれてからという構造にしたのです。

 しかし、そのルールは硬直的に、事前確定的に強制されたものではなく、このような形に準拠して設計してくださいという形になっています。したがって、設計をしてこれよりもっと良い回答があれば、計画デザイン会議で議論をして認めることもできるという体勢がとられたのです。そのため、いろんな形の逸脱が発生し面白いのです。最初の6街区の時は、ベイタウンのコンセプトと全く違うと思われるような提案や、徹底的にガイドラインの精神を汲み取ったと言いながらも、ガイドラインとは違うことがたくさんある提案もありました。しかし、デザイン的には優れているし、面白そうだからやってみようということで認められました。これらの流れは手間のかかる大変なことで、100回以上のワークショップを重ねて議論をする必要がありました。しかし、そのようなシステムが必要なのです。

 当時はバブルの余韻が残っていたため、民間36企業を6グループに分けて実施しました。1街区は100〜120戸で、6〜7階建ての沿道中庭型中層街区がつくられました。最初は売れないだろうと皆びくびくしていましたが、実際は良く売れて、いまや幕張は千葉の中でも異なるアイデンティティをもつ地域になりました。『週刊朝日』が昨年調べたところによると、年収900万円以上の世帯の伸び率がもっとも高かったのは千葉市美浜区でした。これは、明らかに幕張の住宅地の影響です。そのような意味では、浦安でも都市再生機構が頑張って、かなりのグレードのものを作っていますが、浦安よりもこちらの方が売れるという構造になっています。

 以上のように幕張の場合は、千葉県の企業庁が土地を持っていて、土地を売る条件として都市デザインのコントロールまで徹底的にやる、ガイドラインやデザイン会議を媒介として実施していくというプロセスがあったためにできたのです。

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