小浦:
ところで私自身大阪都心についてイメージを共有するのが難しいといいますか、今日お話いただいているような多様な動きが積み重なって段々見えてくるという感じで時間がかかるケースもあると思うんですね。そういった「時間を上手く繋いでいく仕組み」もいるのではないでしょうか。
それはある意味で極端な変化を抑制するとか、極端な事が起こったときにそれを調節する仕組みともいえます。
例えば、淀屋橋WESTに変な店が来たり、極端に大きな店が建ったり、知らないうちに超高層の分譲マンションが建つとかです。人が増え住み手が増えること自体は悪くないんだけれども、何かその場所に対して意味のないことがなされて取り返しがつかなくなりそうなときに、調節する仕組みが必要なのではないか、それも、ある意味繋いでいくことではないかと思います。
大阪では歴史的なものは見えなくなっていてもベースにあります。船場でも土地を読めば歴史性が一杯出てきます。しかしそういったことはほとんど情報発信されておらず、社会的に共有化されていないというのも現実です。そこにやってくる人達もその場所がどんな所かもわからない。パブリックな部分や情報発信の部分が全然繋ぎになっていないんですね。そういったことの方が今は重要なのではないでしょうか。
今はやりのコンバージョンは単にストックを活用するというだけでなく、イメージのあいまいな時間をつなぐ手法として大阪にとって有効だとと思います。それは経済的な活動から見ればまた違った意味での評価もあるでしょうし、あるいは文化的な視点から見れば違った評価もあるでしょう。プランニング的な評価からは、時間を繋ぐのに役立つのではないかと思っています。
蓑原:
今のお話はこういうふうに考えた方が良いと思うんです。
河川法も建築基準法も道路法もみんなそうですけれども、国が一斉に日本国土全体を近代化するという構造の中で考えられたもので、どの法律も基本的なイメージが20世紀型なのです。ですから個々の現場で新しい事をやろうとすると必ず衝突するわけです。しかしそれは一度には変わりません。ですからどうしても今みたいにゲリラ的に一つ一つやりながら変えていかざるを得ないわけです。
ですから森山さんが川でやっておられるような事は素晴らしいけれども、ああいう場所をつくったとたん、では淀川全体は一体どうやって良くしていくんだろうとか、川辺の景色って将来どうなっていくんだろうとか、そういう話に必ず展開していくはずなんです。
しかしそれにも関わらず、先ほどなぜ町人と市民とをあえて区別したかというと、例えばグローバリゼーションの暴力で、せっかく豊かなゆったりした空間を創ろうと思っているところに、それを破壊しようとするものが入ってきたときに公権力を使わない限りは押さえられないんです。
ですから町民ではなくて市民になって、公権力を発動する側にまわらないといけない。市民というのは公権力を支えているんですから、その公権力を市民が行使できるような構造をつくらない限りは、せっかく一生懸命頑張っても必ずトンデモない事をする人もでてきます。それをやるのが新しい政治だと思うし、市民だと思います。
小浦:
一つには都心という場所性がありまよね。大阪にはおそらく色々な都市と共通しているところもあれば、すごく独自的なところもあると思います。
その両面が出てきて蓑原さんと森山さんの発言の中の微妙な違いとして現れているのでしょうか。そうでもないですか? 基本的には一緒なんですよ、でも何となく違いませんか?。
蓑原:
都心という概念は大都市でももう成立していないと思います。昔我々が都心としてイメージしていたようなものってないんです。それをどうやって復元するかを、皆さんが一生懸命一つ一つのプロジェクトでやっているわけですが、それはある意味、都心のつぶを一杯創っておられるということです。
そういう意味では私はイメージに差があるとは全然思わない。
欠けている時間を繋いでゆく仕組み
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