第15回都市環境デザインフォーラム関西
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ

 

大地の芸術祭〜何をしたかったか

 

祭りの復活を狙った大地の芸術祭

 大地の芸術祭は新潟県の過疎地での話です。越後妻有というのは地名ではありません。国や県が市町村合併を進めています。その結果、小さな末端市町村は崩壊しかねません。それを受けながら、どういう風にこの地域を自立させていくのかを考えて、これまでやってきました。妻有という名前は平安時代の荘園の名前から持ってきて、頭に越後を付けて越後妻有と付けました。

 アートトリエンナーレは、3年に1回行われるもので、2006年で3回目になりました。イベントは一つの成果の表われに過ぎず、10数年にわたってやってきた活動の成果が、3年に1回の大地の芸術祭として発表されるのです。文字通り1500年の長きにわたって農業を通して大地と関わってきた地域におけるお祭りです。

 祭りには二つの意味があり、一つは展覧会ではなく人が参加するものあること、それと地元で失われていっている夏祭りを復活させようということです。アートという仕掛けを使って里山を知ってもらおう、この大切さをみんなにわかってもらおう、そしてこれをやってきたことに対して地元の人に誇りを持ってもらおう、というのがこのイベントを始めたきっかけです。今は無くなりつつあるお祭りのきっかけぐらいは作れないかなと思いました。

 地域づくりの美談はたくさんありますが、それらは基本的に美談のまま終わってしまっています。その一番の大きな問題は、現にある状況が必然によるものならば、現にいる人たちだけでは、絶対にその地域を再生できないということです。これはタブーになってしまっていますが、それでは裸の王様の状態です。都市でも地域でも現状がだめだと思ったとき、その地域の人だけでは絶対にできない事を妻有でやろうとしました。4年半の中で2000回におよぶ説明会を行いましたし、6市町村の100人の議員さんが全員反対したりしました。それが現在は地元の人たちが楽しみにするお祭りになっています。

 他者が入ってくるということに対して、どういう事をやっていけるのかが大切なのです。いま環境省は、「寅さんが旅したまち」という政策を進めていますが、これはなかなか目の付け所がよいと思います。つまり国交省が面および拠点都市を狙っているので、環境省は10万人以下の都市を狙っているのではないでしょうか。こういう中で、他者とどう関わっていくのかということですが、この地域の人々は中山間の過疎地で農業をやってきたお年寄りです。それに対して、都市でなんだかよくわからないアートらしきものをやってきた若者・アーティストといった、世代・地域・ジャンルが180度違う方向の人が関わってきたのです。当初は水をかけられることなどから始まりましたが、そうした人たちが物事を動かし始めたのです。


農業を通して作ってきた風景や生活からなる里山

画像ki20
位置図
 
 場所は新潟県の南、長野県と接する辺りです。2006年の大豪雪も記憶に新しいところですが、今から45年以上前、車社会以前のこの地域は、200もの集落が冬の間は半年間も豪雪の中で孤立して生活していました。人口が3万人以上の地域では、世界で最も雪が深い場所です。なぜこのような場所に人が住んだかといえば、この地域に住む人が故ある人たちだったからです。まさに裏日本と呼ばれるところです。

画像ki23
棚田
 
 文字通り山の上にある峠という集落には、日本でも有数の美しい棚田があります。ここの移り住んできた人は、450年前に他地域から逃れてきた一向宗の門徒です。豪雪のため他地域から人は来ないけれども、農業には最も不適当な地域です。そのため、すさまじいエネルギーをかけて田んぼを作ってきました。それだけエネルギーをかけてきたからこそ、絶対守っていこうという意識があり、今も残っているのです。

画像ki22
集落、豪雪地
 
 こうした地域が、合併あるいは効率化の中で、除雪車を行かせたくないので、町へ移れということになっている。しかし先ほどの同潤会アパートの問題と同じように、住んでいる人だけの問題ではないはずです。日本というものすごく大きな国土が、こうした地域によって支えられてきたのです。

画像ki24
瀬替
 
 この写真は、川をショートカットさせ、残された土地を田んぼに変えたものです。このように必死の思いで田んぼを作ってきたのです。

 今から20年前、この地域のいくつかの集落では、お年寄りの自殺率が日本のトップを争うほどでした。同じような中山間地の裏日本地域はたくさんあるけれども、これだけ狭い土地で必死の思いで田んぼを作って水耕農業をやってきた例は他にありません。先祖代々農業を通して作ってきた風景や生活からなる里山を、もう止めろと言われているから自殺率が高かったのです。

 50年前は、日本橋ですら清瀬から炭や野菜を持ってきて、大八車で肥やしを運んで帰る里山の生活が存在していたのです。こうしたものが本当に失われていいのかという問題があります。

画像ki25
ブナ林
 
 また落葉広葉樹の林があり、シャケが登ってくる川があります。雪が降るため敵から守りやすいこの場所は、4500年ほど前の縄文中期においては有数の文明がありました。日本文化のもとになるような縄文土器が930点も出てきています。


径庭(みちにわ)に表れた地域の力を信じる

画像ki27
径庭(撮影:森山大道)
 
 このような場所でアートを使いながら地域再生をしたいと言ったところ、議員の先生は全員反対し、最初は好意的だった知事も逃げ出し、袋だたきの状態でした。そんな状態でも、私は径庭があるから何とかなるだろうと思いました。

 高度成長時代の影の部分と死の新宿を撮ったことで有名な、世界的カメラマンである森山大道さんが、初めて越後妻有に来た時に撮った写真があります。これを私は径庭と呼んでいます。道があって家があるのですが、その間に庭とも言えない空き地があります。

画像ki28
径庭(撮影:森山大道)
 
 ナスを植えたりいろいろなことをしています。車の運転や歩くことが楽しく、この地域の人々は自分が楽しむと同時に、道路を通る外の人たちが楽しく感じる道を作ってきたのです。プライベートな人だけではなく、パブリックな人に対するホスピタリティを、150年以上前から持っていたのです。それならば、これをテコにしていけばなんとかなると思いました。

画像ki29
径庭(撮影:森山大道)
 
 おそらく、このパブリックとプライベートの問題というのは、日本における決定的に大きな問題だと思いますが、それを繋げるのはデザイナーしかないと思っています。媒介するメディエーターたちの活動が重要なのです。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見はJUDI

(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai

JUDIホームページへ
学芸出版社ホームページへ