都市観光の新しい形
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大正区・沖縄の暮らしと文化を生かす

関西沖縄文庫 金城馨

 

 実は私は武庫之荘に住んでいました。ついつい尼崎ではなく武庫之荘に住んでいると言ってしまいます。南北問題を意識しているのでしょうか。

 尼崎の一番北側の武庫大橋のたもとに沖縄人集落と朝鮮人集落があり、私はその沖縄人集落で育ちました。武庫之荘というと高級住宅地のイメージがあるのですが、甲武橋(コームバシ)というと、橋のたもとの汚いとこだというイメージになります。

 尼崎には沖縄人集落が多いのですが、私は市内の沖縄人集落を転々としてきました。そして今は大阪市の大正区に住んでいます。ヤマトの中では一番大きい沖縄人集落といわれています。


大正に根付いた沖縄の文化

 最近はマスコミが先行してリトル沖縄とか沖縄タウンといった言葉が出てきています。沖縄に行かなくても沖縄を味わえるという文句も多くみられます。もちろん沖縄にある文化もあるのですが、そうではなくてもう一つの別の沖縄があるのです。それらも当然沖縄にルーツを持ったものですが、ヤマトという場所で新しい文化に触れながら、新しい価値観が生まれてきたものだといえます。

 そのため沖縄では生まれなかった沖縄の文化もけっこう多くあります。例えばマルフクレコードという会社が沖縄にありますが、もともとは大阪にあった会社です。普久原朝喜という人物が沖縄の音楽を作成していたのですが、彼は蓄音機の修理を仕事とし、また自分自身で作詞・作曲しプロデュースしたレコードを販売していたのです。彼の歌は沖縄を離れた沖縄人を癒した音楽でありました。残念ながら沖縄人に対する差別というものがありましたが、差別を受けた気持ちを癒し、また帰りたいけれども帰れない沖縄に対する愛着や思いを歌ったものも多くありました。

 沖縄から離れた場所であっても文化は繋がっていくものであり、大阪の地に根付いてきたのです。そうした大阪の地に根付いた沖縄の文化が、大正の町のこれからにどのように関わっていくのか、ということが重要になってきます。


大正の生活に根ざした沖縄文化のまちづくり

 最近、商工会議所によって大正のマップが作られました。当初は大正沖縄マップをつくろうと相談を受けましたが、結局おもろいマップという形に変更して作成することになりました。沖縄の店をメインにしながらも沖縄以外の要素も入れたものになりました。

 こうしたことが今の大正区の現状を反映している現象だと思います。マスコミにリトル沖縄として取り上げられるブームの中で、商店街では商店街活性化策として沖縄をイメージした商店街にしてみてもよいのではという意見も出ていました。ある人から商店街の入り口に守礼門を作ろうという意見がでましたが、ここは沖縄とは違うんだという意見が出てすぐ却下されました。

 私も意見を求められたのですが、これは商店街の人が考えるべき問題であり発言はしませんでした。それよりも沖縄出身者が自分自身で意見を言わない、また言えない状況に何か問題があるような気がしました。

 それから10年近くがたって状況も変わってきて、平尾商店街では空き店舗が増えてきました。半分以上がシャッターを閉めた状況なのですが、そのシャッターに沖縄の絵を描こうという動きがあります。商店街の活性化ということで区の支援も受け、私もまちづくり委員という立場で関わっているので、協力させていただいています。これまでに13、4枚近くの絵を描き、来年度も続けていくことになっています。やれるところからやっている状況です。

 大正区は1/4が沖縄出身者です。これは大きな財産であると思っています。表向きの沖縄を出していくのではなく、そこで生活する人たちの気持ちや声、表情が出てくるような、本当の意味での沖縄の財産と呼べるものが出てくるようなまちづくりが良いのだと思います。

 しかしあまり急いでやりすぎると表面的な沖縄だけで終わってしまいます。今、大正区では、民謡酒場などの沖縄の店が増えていますが、これはこれで大変良いことだと思います。ただそういう一面だけではなくて、生活に根ざすような文化が表れてくるようなまちづくりが必要だと思います。

 ここで大正区における沖縄の歴史を知っていただきたいと思います。

 〈ビデオ上映〉。


自分たちの文化を絶やさずに

 沖縄人たちは、自分たちの住んでいる地域をクブングァー(窪地)と言ったり、宝塚ではヨンコーバ(第四工場)と言ったりというように、自分たちの生活している場所をウチナーグチ(沖縄語)で表現しています。他の人たちにとっては、どこのことか分からないけれども、自分たちの中では通じる言葉でした。

 自分たちの生活の中で、負の歴史のように見えるものも、実際はその中に大事なエネルギーがあると思っています。悔しい思いもしましたが、沖縄人は笑い飛ばして協力しあいながら、舞踊や三線、沖縄の料理、ゴーヤーの栽培、豚を潰して皆で分けて食べたりしながら、自分たちの文化を絶やさずに暮らしてきました。

 そうした地域の生活の中でつながりを大事にしてきたことが、都市の中でいろいろな表現を生み出していく力になったのだと思います。しかし、それらがひとつのブームという形で溢れだしてくると少し不安になります。あまりに負の部分を強調する必要はないと思うのですが、そうした部分を踏まえた上で、民衆のしたたかなエネルギーを都市空間の中で活かせないかと考えています。

 そういう思いで自分たちはエイサー祭りを33年やってきました。毎年1万人、2万人という人が来ますが、無料なので毎年赤字の状態です。寄付を受けてやっているのですが、多い時では100万円といった赤字が出たりします。それでも自分たちの沖縄を地域の中で表に出しながら、先人たちの想いを潰さないような形で、そして地域と上手く繋がりをもって、まちづくりに繋げていきたいと思います。

 まだ始まったばかりのことですが、こういった状況があるということを発表させていただきました。

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