都市観光の新しい形
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4。質疑応答

 

町ごとの観光の適正規模

藤本(京都市立芸大)

 私の仕事はまさに景観のコーディネートなので、今日は地域内部と外部の関わりについて、興味深いお話をうかがえたと思いました。

 去年、山形県の金山に行ったときの事です。ここは杉で村おこしをしようと、建物の再生をされています。そうすると、外部の人たちがいっぱい建物を見に来て「私の村は素晴らしいのではないか」と村の人たちが認識するようになったとお聞きしました。これも、外部の力のひとつだと思います。

 また、長野県の小布施町でも外部の専門家を呼んでセミナーを開くなど、普通の町の人がまちづくりのプロと接点を持てる場を作る機会が増えているようです。それも外部の人たちの力を利用して、まちの人の意識が変わっている事例だと思います。

 最後に茶谷さんにうかがいますが、まちづくりや都市観光は町ごとにそのやり方が違うと思います。町ごとの適正規模はどうすれば見つけられるでしょうか。

茶谷

 その質問をよく聞かれるんですよ。そのたびに住民人口の10倍を観光入込み客数の目安にしたらいいでしょうと答えています。人口3千人しかない町が30万人を目標にすると、ゴミは出るわ、受け入れ施設はないわと、めちゃくちゃなことになります。

 ただし、「人口の10倍」は根拠のあることではなく、私の直感的な数字です。長野県の小布施で「目安は人口の10倍」と話したら、「じゃあウチは10万人でいいんですか」と心外そうな顔をされました。ここのように、1万人の町が年間百万人を受け入れている場合もあるので、「適正規模」は一概に言えないんです。

 ただ、受け入れられる数をだしたいなら、宿泊施設も含め、受け入れたい観光施設(この言葉は好きじゃありませんが、産業として町が持っている施設なんかもそうです)に、年間どれぐらいの人に来てもらいたいかを、きっちり計算することが必要です。

 岸和田市なら「年間に何万人、何十万人が観光の入込み客数としてあれば、うまくいくか」という数字を把握した上で、いろんなことを考えていくのが近道でしょう。もちろん、施設がどれだけあるかを、現実から目をそらさず正直に把握しないといけません。本当は、もっと条件を絞り込んでいくのが適正規模をはかる本来のやり方なんですが、それを話すと長くなりますので。


長崎さるく博の「まち物語」とリピーター

玄道(FM COCOLO。前・歴史街道推進協議会)

 今日の茶谷さんの講演をうかがって、長崎のいろんな地区の人たちは自分たちの物語づくりに目覚めたんだなと思いました。わが国では長い間、観光は観光行政や観光産業に携わる一部の人たちだけの間で語られてきました。今日では、観光を含めたツーリズムの振興と地域の発展とが密接に関連することが明らかにされるにつれ、一般市民やまちづくり関係者、都市計画家など、多くの人たちが発言し、行動するようになってきました。大きな変化だと思います。

 この変化は、戦後日本が高度成長路線をひた走り、バブル経済が破綻し、都心も地方も疲弊し、長い間、社会全体が閉塞感で覆われた時期を経て、ここに至ってようやく人々は単に表面的に繕われたものとか経済的豊かさだけでは満たされない、ほんものの生活の豊かさ、心の豊かさを求め始めたことと無縁ではありません。

 ほんものの豊かさといっても、それは遠い将来にあるものでもなく、また海を渡って外国へ行けば見つかるものでもありません。童話「青い鳥」の例を挙げるまでもなく、自分たちの土地にまつわる歴史とか伝承、見慣れてきた杜や里山や小川、古い建物とか大人が子供だった頃の情景や古老の語る昔話、年々繰り返される四季の祭り等々、こうした一見何でもないようなことが実はすごいことなんだと、生活を彩るその土地固有の価値を見直そうという気運が全国に広がってきました。

 このような時代の変わり目に、長崎さるく博はいろんな地区の人たちが地域の魅力を発掘するきっかけを提供したように思います。最初に地元の人たちがわがまちの魅力発見の面白さに目覚め、次に自らワクワクしながらその土地に散りばめられたお宝を見つけ出し、それらをストーリー性(筋書)のある「まち物語」へと編集していかれた様子が目に浮かぶようです。

 ここで見落としてならないのは、出来上がった物語もさることながら、わがまちの魅力(再)発見の楽しさと物語づくりのプロセスこそが、その地区で暮す人々の土地への愛着と誇りを育むことになり、これが土地の力となって旅行者の旅心を誘うものだということです。

 長崎は史上2番目の原子爆弾の投下を受け壊滅的な被害を受けましたが、戦後、市民の並々ならぬ努力によって見事に復興を果しました。今日、中島川沿いには中国式の眼鏡橋をはじめとする石橋群が独特の景観をつくり出していますし、日本で初めて英語のみくじを作ったという寺院が見晴らしのいい山の斜面にあったりして、長崎らしい歴史を刻んだたくさんの地区が残っています。茶谷さんのお話から、地区ごとにそれぞれの魅力を掘り起こし、その土地固有の「まち物語」をつくり出していくのが新しい都市観光の姿と言えるのではないかとの思いを強くしました。

 その地区で生活する人たちが自分たちの生活をこよなく楽しんでいる。彼らの豊かな生活の仕方(ライフスタイル)が旅行者の旅心を引き付ける。訪れた旅行者は地元の人たちの思いがびっしり詰まった「まち物語」と出会い、そこに自分たちの思いや感情を重ねながら、新しい物語=思い出を紡いでいく。このようにして、旅行者はまたいつの日か思い出の場所や人を訪ねて戻ってきます。

 金沢や倉敷などは、そのような都市の典型のように思います。戦後幾度となく押し寄せた開発のうねりに抗しながら、住民と旅行者の共通のよすがを守り、古風な佇まいを今に伝え、たくさんのリピーターを迎えています。

 ところで、長崎さるく博の場合、どれぐらいのリピーターがありましたか。

茶谷

 町歩きイベントは、意外にもリピーターを増やす結果となりました。720万人といっても実数はとても少ないのです。約300万人ぐらいで、その人たちが平均2、3回来てくれて720万という数になりました。

 強調したいのは宿泊客のリピーターが多かったこと。長崎の観光入込み客数が6.8%増えたうちで宿泊客数が8%増加したんです。だから、「長崎さるく博」ではホテル・旅館関係者が一番喜びました。町歩き・界隈めぐりで自分と町とのコミュニケーションというポイントをついていくと、名所・旧跡めぐりよりもリピーター率が高いということが分かった「長崎さるく博」でした。

 印象的な出来事としては、東京や関西の遠くの人が長崎ファンになってくれたことですね。それでガイドさんに手紙を書いて、お友達関係になる。その人たちが数回長崎に通う。10回来た、15回来たという方もいます。今ではその人たちと長崎でネットワークが出来ています。どのくらいいるかと聞かれても、主催者にも把握不能です。実は「長崎さるく博」の本番前に、市民から「長崎からの手紙」と題するPR手紙を出してもらいました。そうしたら4万通も出してくれたんです。それがとても効果があったらしくて、「それを見て長崎に来た」という人が沢山いました。

 これひとつとってみても、観光の局面は今までとはかなり変わってきている。マス観光の発想だけにとらわれているのは、間違ってますよ、と言いたいですね。


まず自分たちが楽しむ、それを分かってもらうには?

長濱龍一郎(松下電工)

 私は合意形成に関わる仕事でまちづくりに携わっております。今日の話にも共感するところが多々ありました。やはり何かをしたい意志があって、それを達成したいと思うところに合意形成が発生するということですが、なかなか外から口出ししにくいと思うことがあります。

 「何かをせねば」とあせっている人たちに、まず自分たちが楽しむことを本気で思ってもらうためにはどうやったらいいでしょう。まちづくり活動をしている人たちは発想がどうしても来訪者に向かってしまって、自分たちはどうなのかという所に向かわないんです。

茶谷

 この質問もよく受けるんです。「長崎はなんでそんなにうまくいったの」と聞かれますが、答えはひとつ、実は「長崎は落ちるところまで落ちたから」。

 長崎も観光都市で生きているという自覚はありますが、「このままいくと、あといくつホテル潰れるの?」といったどうしようもない状態だったんです。それが続くと、町から活気が消えていくんです。「何ばせんとね!」ということになって、これまでのやり方ではなく、何か思いきったことをしなければということになりました。誰がやるのか。私たちしかいない!…これが長崎さるく博の発端です。

 それがなぜ大成功を収めたかと言うと、観光というものをこんなふうに市民が認識できるかどうかにかかっています。つまり、それだけの力があるんだということを分かるかどうか。ほとんどの町は、自分の町の観光力を分かっていません。観光都市と呼ばれていいはずの神戸市ですら「観光都市とは呼ばれたくない」と以前の市長がおっしゃっていたのを記憶しています。未だに、観光都市=温泉町と誤解している人が多いんですね。こんな中では観光都市へ向かう力が出てこないうえに、「これでやろう」という確信も生まれない。その問題の解決法は私にも分かりませんが、行き着くところまで行ったら何とかなるという気がします。小布施もたしかそうだったはずです。


岸和田まちづくり、今後の展望

吉田(まちづくりワークショップ)

 岸和田の小泉さんは、本町まちづくりの先頭に立って活動されてきました。今後、そのまちづくり活動が他のまちにどう広がっていくか。今後の展望について小泉さんか岸和田市さんにお話いただけたらと思います。

実森(岸和田市)

 本町のまちづくりは、もともと住んでいる人が「自分たちのまちをこうしたい、本町らしい町にしたい」という願いで始まりました。だから、観光のことまで考えてやっていたわけではないのですが、結果的に観光客が訪れるようになりました。

 他の町への波及という点でも「本町が頑張って良い町になったね、私たちも頑張ってみよう」と周辺の町へのいい刺激になっているという効果は明らかにあります。住民の方同士も顔見知りになって、個別の連携の中での波及効果も出てきています。

奥正孝(本町のまちづくりを考える会)

 本町のまちづくり活動として「紀州街道夢灯路」を5回実施しました。それをきっかけに、第1回岸和田城「夢灯路」を2007年7月29日に開催しました。私が20年も前から考えていた企画で、ようやく実現したものです。今後は他の商店街とも連携して、岸和田城を中央にして放射状に「夢灯路」を伸ばしていきたいと考えています。この岸城町(きしきちょう)には住民も少ないので、他の町の人々も岸和田城の町に参加しやすいと考えています。

 ボランティアメンバーも集めて、いずれは各地域が活性化するようにしたい。ボランティアとして外部の色々なプロにも参加してもらいたいと思います。また、私は大学の講師をしていますので、まちづくりに興味のある大学生やイベントサ−クル部の大学生などを巻き込んでいきたいと考えています。最終的には、岸和田城夢灯路を観光としての岸和田の経済の活性化にもつながればと考えております。

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