〈フラットスケープ〉、 平板な景観あるいは薄っぺらな景観。
近代がもたらしつつある景観を表現したシュルツの造語である。
同じような言葉は他にもあり、 それらが表現しようとしているイメージは多くの人びとが実際に感じているところである。
例えば奥野健男は〈漂う生活空間〉という言葉を使った。
それでは、 そうではない環境を何と呼ぶか。
〈本物の場所〉、 〈土地の気風=ゲニウス・ロキ〉、 〈人が確かに生きている空間の光景=情景〉などなど。
もっとも一般的には〈らしさ〉が使われる。
このような感覚をもたらす環境の特質の一つを、 ケビン・リンチは〈アイデンティティ〉と呼んだ。
人と環境のこのような関係は相互的なもので、 人の側にも環境の側にも、 〈フラットスケープ〉と感じたり〈本物の場所〉と感じたりする要因が存在している。
このことは、 こうした人と環境との関係が極めて文化的な範疇に属していることを示している。
価値観が多様化し、 情報が氾濫している状況下で、 私たちの文化がどこに向かいつつあるのかが定かではない。
そのことが私たちの環境に対する感覚も多様にさせている。
例えば、 ベンチューリは、 大都市郊外の幹線道路沿いの景観を〈ファンシー〉と評価した。
しかし、 多様化しつつはあるが、 普遍的な感覚もありそうである。
リンチはそのことを明らかにしようとしたし、 アレグザンダーはあるべき環境の〈普遍的な要素〉をパターン・ランゲージで示そうとした。
少し単純な表現だが、 都市環境デザインとは、 環境に何等かの手を加えることである。
その行為によって環境は、 〈フラットスケープ〉に近づいたり〈本物の場所〉に近づいたりする。
そうした認識は会員諸兄の中に根強く、 さまざまな集まりごとに、 そのことが話題になった。
このフォーラムで〈アイデンティティ〉を取り上げた遠因はそこにある。
私見になるが、 ここで〈アイデンティティ〉とは何かを明らかにすることは、 主たる目的ではないと思っている。
大事なのは、 〈アイデンティティとは何か〉という議論の重要性を〈感じること〉ではないかと思う。
都市環境に手を加える立場にある者は、 こうした議論を通じながら、 日々環境に対する感覚や認識を磨き、 研ぎ澄ましておかなければならないのではないだろうか。