場所というのは大変に重要な現実であり、 しかしながら大変に分かりにくいというか捕まえどころのない概念です。
それでいて誰でも場所というものは何であるかを分かっています。
すなわち場所においてわたしたちは生活し、 そして仕事をしている訳です。
それらをわざわざ説明する必要はないでしょう。
しかし、 いったん場所というものを“概念”として定義しようとすると、 大変混乱した状況になるわけです。
この混乱の例として場所というのはいろいろな規模で捉えられうるということがあります。
「あなたはどちらからこられましたか?」という風に尋ねるとそれに対して「私は京都からです」とか「私は関西からです」、 もしくは「私は日本からです」という風に答えることができます。
すなわちここにおける困難な点は、 場所という言葉は地区を意味したり都市を意味したり地方もしくは国を意味したりするということであります。
“場所”という概念をこれらの他の言葉から区別するものは何かを考えてみましょう。
エリック・ワルター〈Eric Walter (1988)〉という心理学者は場所を“諸経験を持つ場所”と定義しています。
イー・フー・トアン〈Yi-Fu Tuan (1977)〉という地理学者は場所を“記号もしくはシンボルの領域”という風に定義しています。
ですから場所というのはただ地図の上で示すことができる地区とか地方以上のものだということです。
場所には私達の感情の思い入れが強くあり、 そしてまた場所は私達が記憶を持っている所・独特の建築様式とか慣習とか方言を持っているものです。
すなわちそこ特有の生活の仕方等とも関連があるものです。
こういった場所に関しての感情とか意味は、 多くの人にとって特に自分の住みかとか出身地に関して大変強烈にあるわけです。
すなわち自分が育った所、 もしくは今住んでいる所に関して大変感情的思い入れが強いわけです。
このような場所に対する気持ちの強さを決して過小評価してはなりません。
いろいろな地域社会において、 例えば高速道路の建設とか空港の拡張工事といったような自分たちの住みかに対する破壊行為に対して強く反対し、 自分たちの環境を守ろうとしてきた地域社会の例は数多くあるわけです。
それからまた今自分が住んでいる所を去らなければならないならば、 死んだ方がましだと言う人達もいるわけです。
このことが意味しているのは、 場所というのは個人的な問題で、 実際にそれぞれに自分達の場所・家・住みかといったものがあるので、 場所に関しての経験は間主観的(intersubjective)だということです。
すなわち純粋にただ個人的なものではないということです。
この間主観的とは、 くだいていえば「私があなたの意味を知らず、 あなたが私の場所を知らなくとも、 われわれは少なくともお互いにとってその大切さを理解できる」ということです。
私の場合は中央から遠く離れたイギリスの南ウエールズ地方の大変特徴のある小さな村で育ったのですが、 写真1のように孤立している所であるだけに、 村中の人々が顔見知りという状況であり、 洪水や暴風、 雪など大変なことがあったときなどは村全体で大変強靭な協力を示しました。
しかし、 そこが特に快適であるとか住むのに便利であったとかそういうことはなく、 大変貧しい村でした。
家は寒く、 湿気も多く、 そしてまた1950代の中頃までは電気も水道も通っていませんでした。
ただ、 すべてがローカル色だけというのではなかったわけです。
こんな寂れた場所であっても、 ほかの場所と共有する文化とか建築の要素といったものがありました。
すなわち近隣の周りの村と共有するだけではなく、 西ヨーロッパと共有するようなものもあったわけです。
例えば写真2の朽ちかけたゴシック的な建築物はティンターン修道院というところです。
この修道院に関してワーズワースは大変有名な詩を書いています。
ですからこういったものはヨーロッパ全域で広く共有された要素であり、 プレイスレスネス(没場所性)、 すなわち特に特徴のない場所ということになります。
すなわちどの場所とも特に関係を持たない場所になるということです。
しかしここでは、 おおくの他の前近代的な場所と同じように、 この没場所性の特徴がその周辺の背景(セッティング)に適応しています。
すなわち、 この場所のローカルな、 また元々持っていた資質に対してうまくバランスをとっていたわけです。
だから、 実は外から取り入れたものであるにも関わらず、 あたかもここの場所に帰属してるように見えたわけです。
そしてまた、 この二つの要素がどのようにお互いに組合わさっているか、 そしてどのようなバランスが二つの間にあるかということなのです。
場所というのは経験の生まれた所として理解されるわけですが、 そこには三つの要素があって、 これらはお互いに切り放すことができないものです。
このことを写真3に示した私が通っていた学校がある街の広場の写真で説明したいと思います。
まず、 道路とか建物といった物理的な要素があります。
これは写真の背景にあたりますが、 これらは場所のランドスケープあるいはタウンスケープと呼ぶことができます。
二番目にはこのようなタウンスケープ(街の風景の枠組み)の中に経済活動とか社会的な相互作用というものがあります。
すなわち、 人がいろいろと何かを行っているという状況が前景にあります。
三番目にランドスケープと社会的な相互作用と関連するものとして歴史というものがあり、 そしてまた場所と関連した意味があります。
こういったものは記念碑とか地元のお祭りとかといった形で表現され、 また、 個人的なそれぞれの記憶といった形でも表現されます。
この写真の中央にあるのがチャールズ・ロールスの像で、 ロールスロイスのエンジンなどの車の発明者の記念像です。
すなわちアイデンティティというのは一つの場所を他の場所と区別するもの、 また、 それによってその場所が他の場所とはっきりと識別されるものです。
大変強いアイデンティティを持つ場所とはこういった三つの要素が大変緊密な形で相互作用している所であり、 そしてまた、 地元の特徴にうまく適応している所ということです。
例えば写真4に示す西インドの砂漠にある街は中央からたいへん離れていて300年間にわたりほとんど変わっていない所です。
まず人間が人為的に作ったランドスケープについてですが、 これは自然の背景に対してうまくなじんでおり、 またその特色をより強くしていると言えるでしょう。
ここでは山の上に街があるという感じになっています。
あたかも岩から直接生えているような感じになっており、 砂漠の一部となっているわけです。
二番目に社会的・経済的相互作用を見ると、 ランドスケープやタウンスケープにおいてコンテクスト(脈絡)とよく合っているわけであります。
ここでは道がちょうど陰になるようになっており、 通行人やお店の人達に対して日中は日除けを提供しています(写真5)。
そして三番目にその意味とかシンボル(象徴)、 共有されている文化的な価値の表現があります。
写真6にあるインドのガネーシャという神は幸運の神として多くの家の戸口に飾られています。
強力なアイデンティティがある場所というのはその建築やデザイン、 そしてまたお祭りや路上の生活において自信に満ちあふれており、 その場所に生活し仕事をする人達にとって大変強力な帰属意識を提供するものです(写真7)。
また、 よそから来る訪問者にとって文字通り、 それらは魅力的なものとなり、 観光客を引き寄せる要素となるわけです。
すなわち、 そういった所に行くのには、 それだけのことがあるという気がするからです。