京都のまちは、 ジワジワと壊れつつあるように思うが、 この少しずつ壊れていくことが、 逆に市民が危機意識を持ちにくい原因になっているにようにも思われ、 その点が怖さでもある。
また、 守るだけでなく、 都市のエネルギーを爆発させる場所も必要である。
表は古めかしく、 中は最先端のまちというのが求められる姿ではないか。
山崎正史 オーギュスタン・ベルグ氏によると、 客観的世界が我々の外にあるのではなく、 「ひとの眼差しの中に文化がある」という。
また、 彼は、 歴史的なもの、 時間までも共有性を持って見るべきことを指摘している。
京都のひとは、 歴史的なものを日常生活の一部として感じながらくらしているところがある。
内装は京都らしいという指摘があったが、 永い年月の中で培われてきたものの見方の細やかさ、 洗練さなどが、 手の届く所では表現されるということかもしれない。
それを外にどう表現していくのかということだろうし、 答えが簡単に見えないところが楽しいところでもある。
西 京都の町が住んでいる人々の愛着に支えられて、 現在の姿を保っていることがよくわかり、 感銘を受けた。
“京都らしさ”あるいは一般的にある“まちらしさ”というものは、 それを感じる人の数だけあるだろうし、 その多様性こそが都市の本質とも言えるだろう。
しかし京都に住んでいる人がこのまちに愛着を持っている限りは、 形は変わったとしてもある種の京都らしさを保っていくであろうし、 またそのことを期待したい。