祇園グループの中ではないのではないかとの声もあったが。
西 町家の形そのものとかいう話しなら、 伏見と西陣、 祇園では明らかに違う訳だから、 別々に考えざるを得ない。
ただ、 もっと建物と物、 建物と通り・河川とかの関係性とかに一般論化して考えれば、 全体としての京都らしさも漠然とではあるが、 あるのではないか。
清水 出格子風の飾り窓に陶器を飾るとか、 抑えた表現の中に京都らしさがあると言えるのではないか。
また、 まわりを気にしながら建物を建てるという、 あるルールを守りながら表現をしていくというのも、 京都らしいと言えそうだ。
吉田 京都のまちは、 もともと、 町→町組→下京・上京→京という構成で、 町の単位を基本として何事も進んで行ったという歴史があるので、 町単位で考えた方がわかりやすい。
祇園らしさとか、 伏見の南浜らしさとか。
富山 伏見の討論に参加したが、 いろいろなまちの集合体が京都であるとしても、 伏見の場合より独立性も強い。
京都と伏見の関係を、 大阪と堺の関係になぞらえる指摘もあった。
田端 まちを具体的にどうしていくか、 ということを考えようとすると、 個別の地域をベースに考えざるを得ないようであるが。
西 まちの具体的な形態・まちなみを考えようとしたら、 当然個別の地域をベースに考えざるを得ない。
榊原 言語イメージとして京都を考えると、 山紫水明とか、 四神相応とか山河大地を表現することばはあるが、 まち全体として京都を表現する言葉はどうもなさそうだ。
つまり、 大きな空間のまとまりとしては、 京都らしさというのは言えそうだが、 まちそのものは、 モザイク状でしかあり得ないだろう。
従って、 全体としての空間の有り様が鍵ではないか。
田端 自然的・地形的な構造が持っている京都らしさというものはありそうだ。
商店街グループで、 京都らしさがない、 というときの京都らしさとは何なのか。
山崎譲二 今回対象の商店街の歴史性の浅さ、 そして商店街が業態として持っている、 時代の流れに合わせていくという、 宿命みたいなものがあるためだろう。
材野 木屋町・先斗町のひとびとも、 一見さんを受入れたいと思ってはいるが、 うまくできないところが多い。
一方で一見さんとうまくすりあっている店で成功しているところもあり、 変化の芽はありそうだ。
京都のひとは何をやるにもすぐには動かず、 様子を見ながら、 うまくいきそうだと動きだすという、 変化の受け入れ方に京都らしさの一つがあそうだ。
田端 新しい町に京都らしさは必要なのか。
榊原先生の指摘のように全体構造の中に京都らしさがあるとすると、 あるということになるが。
榊原 問題提起の部分で、 円山公園が京都らしいという指摘があったが、 もともと境内地であったという歴史的成り立ちの中に京都らしさが表れてくるのではないか。
宇都宮 外見上の京都らしさという話題がきょうは多いが、 生活様式とか、 生活上の工夫とかいう視点で考えてみてはどうか。
私自身が考える京都らしさは、 自然そのものが都市生活の中に入り込んでいて、 我々の身体になじんでいることである。
そういうものの結果が、 例えば町家だったりするのではないか。
田端 住み方、 ものの感じ方は考えるべきテーマである。
祇園でも、 上京・下京でも、 都心に人が居住していることでまちが守られている。
西 今日は、 都市環境としての京都をテーマとしている関係もあって、 意識的に外の話しを中心に展開してきたところがあるが、 実際に京都らしいと、 人々が感じている部分というのは、 案外そとまわりではない部分もありそうだ。
例えば、 京都における喫茶店・ショットバー・ディスコなどの内装が実は京都らしいという指摘がある。
これには、 幾つかの要因が考えられるが、 まずオーナー経営者が多いこと、 オーナーに目利きが多いこと、 そして京都の内装・ディスプレー業界にアート・デザイン系の人材の層が厚いことが考えられる。
中村 歴史的意味での京都らしさというものは一端おいて、 エコシティとして京都を考えると、 結構展望が開けるのではないか。
市街地の直近でオオルリやカワセミが見られる大都市は他にはないのではないか。
前田 学生の意識調査においても、 京都の未来性等には疑問が多いものの、 京都の歴史性・風土性は評価されており、 この辺が京都の今後を考えるときのヒントでないか。