京都らしさや、 大阪らしさなど、 私達はイメージの集大成として、 アイデンティティをとらえているが、 それらは視覚的には「見えない」ものである。
「見えない」ものを手がかりにして、 私達は街のアイデンティティを言葉や形態に表してとらえているから、 それぞれの人々の生活史によってひとつの街でも見え方が異なる。
かって、 カリフォルニア大学の大学院で学生達とサンフランシスコのアイデンティティとは何かを討論したことがあった。
この時一人は三角錐で有名なトランスアメリカの高層建築をあげ、 もう一人はケーブルカーを出して譲らなかった。
聞いてみると彼らは自分たちが最初にサンフランシスコにきた時に印象づけられたものを取り上げていたのだ。
このように、 アイデンティティとはいかにも普遍的な共通認識と思われているが、 実はどこまでも、 個人に属したものを基本としており、 個々人が遭遇したある種の空間体験がその街の評価を決定する要因になっているようである。
このため、 アイデンティティがコンセンサスを得る存在となるためには、 個々人が空間体験した「見えない」イメージをモノや空間に置き換え、 そこでおたがいに類似した思いを持ち合うことが必要となってくる。
このため街のアイデンティティを二つのスケールによって分けて考えてみたい。
ひとつは、 大きな地域や自然スケールでの風景構成要素。
たとえば、 街を輪郭のように取り囲む日頃見慣れた山並みや海や川。
地形が平坦な米国の都市ではこれが格子状の道路となり、 ヨーロッパでは建築のまとまりとなる。
第二は身近なスケールからの風景構成要素である。
特に本来の目的を超えた空間の使われ方やそれらの細部にアイデンティティが生まれているようだ。
路地の住戸玄関に溢れ出す植木鉢、 遊び場になってしまった建物間の空き地、 家のすき間から見える山並み、 それら空間的な共振共鳴の体験を生む場所がアイデンティティのある場所といえるだろう。
そこには、 さまざまな空間が年輪のように「時」を刻みつけ、 生活を溶かし込む「器」となり、 不思議な包容力がある。
空間的には、 これらの場所は「形態」よりも、 人々と土地との「関係」、 建築や道、 空き地との「関係」が明確であり、 これらの集積が街のアイデンティティとなっている。
すなわち、 人と風景、 オープンスペースとのコミュニケーション(=干渉)のあり方が、 一方的ではなく相互方向の空間であることが重要なようである。
これらには、 様々な答えがありそうである。
私自身は、 人がその都市環境全体とどう関われるか。
そこでの風景が人に何を伝え、 道や川、 橋、 公園や広場が人々に何をコミュニケーションしているのかを読みとれることを、 それぞれのデザインや計画のテーマとしてとりいれている。
それは、 物理的な形態としてのスペース(空間)から、 人が環境との距離、 あるいは関係や意味を読みとれるプレイス(場所)を生み出そうとする姿勢ともいえる。
手法としては、 視覚以外の身体的な感受性(身体知覚)から街をとらえ、 それを対象として浮かび上がらせることである。
いわば、 形態を寡黙にすることによってその街や特定の敷地に立ちあらわれる出来事や自然との干渉現象をデザイン対象とすることであり、 それは記号的認識よりも身体的体験の重視となる。
街は、 人々の断片的な感受性の積み重ねであると考えられるが、 このような感受性の体験空間の集積こそが、 人々に自由に都市像をイメージできる街となる。
このような身体性の感覚空間を街の隅々に多く造ることによって、 私達は「見えない」街のアイデンティティに出会うことが出来るのではないだろうか。