しかし実際には、 それぞれの都市の中に様々な「まち」と様々な生活があることが、 この震災で顕在化した。
芦屋の中にも、 商店街を中心した下町風情のある「まち」も、 マンションやミニ開発と戸建の混在する「まち」もある。
芦屋や神戸という都市の名前を口にするとき、 人は具体的な場所を意識していただろうか。
都市の名前も日常的にはイメージでしかなかった。
現在の都市の中にある多くの「まち」は、 具体的なエリアやかたちをもっているだろうか。
「まちはずれ」はあるのだろうか。
「まち」は、 そこに住む人々、 そこを使う人々の集合的イメージでしかないのではないだろうか。
確かに計画的につくられたニュータウンや埋め立て地の開発地などには、 「まちはずれ」がある。
しかし、 ふつうの市街地はどこまでも続いていて、 区切りは見えない。
それでも、 住んでいる人にとってはそれぞれに異なるまちがある。
それは、 時間の経過を積み重ねた生活のかたちであり、 ふだんはほとんど顕在化していないが、 何かを契機に初めて意識される。
これまでは道路整備や都市開発など、 住環境を変えるような出来事がその契機になっていたし、 震災もその1つとなった。
もっと日常的には、 「家に帰ってきた」という意識にも現れるが、 その意識を「まち」に対して自覚することは少なくなっている。
アイデンティティは、 外からみた「まち」の特定であると同時に、 うちからの「まち」の認識でもある。
外からみた「まち」のアイデンティティはまちの姿や風景など見えるかたちであったり、 ハイカラや歴史性などひとつの全体的イメージとしてとらえられている。
一方、 うちからみると「まち」は様々な生活の集合体であり、 だからこそ、 そこには、 住み方の作法があり、 それが結果としてのまちのかたちとなる。
公共性やコモン・センスは、 この住み方の作法の1つの表現である。
まちづくりはこれまで、 外からみた「まち」を計画することが多かった。
同じ環境保全型のまちづくりでも、 歴史的環境整備は、 外からみる「まち」を目標にしたかたちのまちづくりとなることが多く、 住宅地の場合は、 うちからのまちづくりであることが多い。
中でも住環境保全のまちづくりは、 住み方の作法を共有化することである。
まちの公共性の再確認であるともいえる。
例えば、 生け垣は個人の管理ではあるが、 同時に道の環境をつくっている景観要素でもあることから、 まちの空間要素でもある。
生け垣は個人の家の快適性や安全性を実現するとともにまちをつくっている。
個人とまちのお互いの快適性になっている。
これが「まち」に住むことの公共性の意味であろう。
いずれにしても保全型の環境整備や環境保全は、 目にみえるかたちを対象とするため、 まちづくりの目標や公共性の意味を共有化しやすい。
ふつうの市街地の中の「まち」でのまちづくりは、 そこに住んでいる人も、 計画をするひとも、 まちを認識することから始める必要がある。
まちのかたちは様々な生活の集合体であり、 そこには住み方の作法がある。
長屋には長屋の住み方があり、 住工混在地にも混在地の住み方がある。
古いまちもあれば、 新しいまちもある。
見た目のかたちが変化していっても、 住み方の作法を維持することは、 住み方の環境を維持することにつながる。
そこにその「まち」なりの公共性(共有化できる作法)を確認することができるのではないだろうか。
生活の作法が残っていれば、 狭い路地の空間も、 快適で安心できるまちの空間であり続け得る。
阪神間であれば、 生活の場から山が見えるようにと、 建物の建て方を考えるだろう。
「まち」が集まって住むかたちであるならば、 まちのアイデンティティは、 共有化できる生活の作法(=公共性)がかたちになったものといえる。