そして、 地域空間において心地良いアイデンティティを持っている空間とは、 自らの見知っているアイデンティティと共通性を感じる場合と、 視覚上の共通性は、 少ないものの、 地域の生活に根ざしたその場独特の空間構成を感じる場合ではないだろうか。
つまり、 アイデンティティとは、 そもそもは人間の「心」とか、 「哲学」の領域に属する概念であろう。
そう考えると、 日本において地域のアイデンティティが崩壊していくメカニズムの一部がおぼろげながら見えてくる。
つまり、 日本においては、 建築・土木・造園・都市計画等の分野を問わず、 人間の「こころ」を獲得することを最大の目標として、 空間づくりを行っている訳ではないからである。
(もちろん、 全然考えられていないということではない。
)
地域になじんだ「何気ない」、 あるいは「すがすがしい」空間をつくるための現実的な、 大きな課題が2つあるように考える。
ひとつには、 「景観」や「空間」づくりを「メシの種」として考えざるを得ない状況がある。
わかりやすい例でいうと、 何もないただの芝生広場が公園として最も好ましい場合があったとしても、 そういう設計では造園の設計業務は成立しない、 メシが食えないという現実である。
同じことは、 橋梁・舗装・フェンス等、 共通的に言えることである。
中途半端なデザインにする位なら、 何もしない方がましだと思われる例が、 極めて多く見かけられるが、 「何か」した方が確かに売り上げの増加になるのである。
さらに国庫補助事業の対象基準の引き上げが、 結果的にはこの流れを助長してしまっている。
ふたつめの問題は、 官・民・業界・学会を問わず存在する実績主義である。
大変な手間と時間をかけて、 ようやく地域になじんだ空間づくりに成功したとしても、 なじんでいればいるほど、 当然のことながら目立たないのである。
ところが、 対外的にはもちろん、 組織内においても目立たないものは評価されにくい(わかりにくい?)ものである。
もし仮に、 人間の「心」を獲得することが最大の目標として設定できるのなら、 このような状況を変えていく大きな足ががりになるはずである。
その上で、 法的強制力を含めてそれを実践していく制度が必要な場合もあるだろう。
また一方で人間の自発的意思を引き出すしくみも必要である。
この場合は法的強制力を用いない方が好ましいであろう。
そして、 人間の創造力を刺激するような空きスペースやハーフメイドの空間、 セミパブリックスペースなどがこういう動きを助けていくことだろう。
いずれにしろ、 強調したいのは、 「何気ない」空間を日本においてつくろうとしたら、 それは「何気なく」は絶対にできないということである。
それは、 自らの属する組織・業界における自らの存在そのものをかけた戦い、 あるいは横断的・秘密結社的集団による社会的ムーブメントによってのみ、 実現できるものであろう。
プロを自称する人間はその位の志を持って欲しいもである。
このことは場のアイデンティティに関してどんなに一般化して考えようとしても、 自らの実体験をベースにしないと何も語れないという、 レルフ氏の認識を示している。
レルフ氏の考えに従えば、 「京都らしさ」を語る場合でも、 それぞれの人間にとっての「京都らしさ」を語ればよいということになる。
これは、 当然のことと言ってしまえばそれまでであるが、 都市の多面性を語る際に、 いろいろな断面があって当然だという立場である。
従って、 誰にとっての「京都らしさ」論なのかと言えば、 あらゆるひとにとっての「京都らしさ」論ということである。
一日だけのツーリストにとって、 あるいは数年間だけ過ごす大学生にとって、 そして代々京都に住んでいるひとにとって、 の「京都らしさ」論であるべきだという立場である。
ところでワークショップの際、 そもそも空間構成上、 一般的「京都らしさ」というものがあるのか、 というテーマ設定そのものについての議論があった。
その場の結論的意見は、 都市構造のレベル(三山・河川・社寺等)では共通する「京都らしさ」を考えうるが、 「まちなみ」レベルということになると一般的に「らしさ」は語れないということであった。
「京都らしさ」というテーマ設定については、 ひとつには、 私自身が永く学研都市のプロジェクトに関係していたこともあり、 「京都らしさ」「奈良らしさ」「日本らしさ」ということを始終考えていたこともあり、 私自身にとって抵抗のない言い方であった、 という事情もある。
ただ、 そういう立場で京都を見るという見方自身が一般的ではないことを実感した。
また、 空間のアイデンティティを議論の対象としてはいても京都人のライフスタイルとか、 歴史認識にまで話しが及べば、 必然的に一般的「京都らしさ」論につながっていくだろうと単純に考えていたところもあった。
ところで、 「京都」は日本では間違いなくアイデンティティの強いまちのひとつであるが、 その「京都」のアイデティティを改めて問題にしたところが実は最大の問題提起であった。
今回の「アンデンティティ」というテーマ設定自体が「京都」や「神戸」「阪神間」そして「日本のあらゆるまち」の危機を象徴しているものだと言えるだろう。
京都市では近年、 歩道舗装や河川高水敷の舗装やり替え・改修が続いている。
関係業界以外の多くのひとから嘆きの声を聞く。
京都市に限ったことではないが、 このままでは屋外に係わるあらゆる関係者・関係業界が市民からの信頼を失うのではないかと危惧している。