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仮想世界との上手なつきあい方

ウエノデザイン 上野 泰

 大多数の庶民にとって、 リゾートの提供する生活は、 増幅されたイメージを満たす、 束の間の夢の世界であり、 その意味でスピルバーグが描く「恐竜」と同じ位、 非日常的な仮想世界なのである。 世界的リゾート、 バリ島の例をとろう。 良きバリのリゾートの魅力は、 仮想世界としての空間と、 現実のバリ島民の日常生活空間が、 しばしば交差することである。 例えば、 ウブドゥの「アマンダリ」では、 バリの集落を模したホテルの敷地内を通って地元の農民が畑に通う。 とは言え、 リゾートが地元の人々の生活と切り離された、 虚構空間であることには変わりはない。 それ故、 リゾートはしばしば、 現実のバリよりもバリらしい。 人々はその虚構の向こう側で、 悠々と日常生活を営んでいる。 バリのリゾートで見ることが出来る伝統芸能の多くは、 宗教的行事に由来するものが多い。 バリの宗教行為における「トランス」は有名であるが、 あれも本物なのか演技なのか、 本当のところは分からない。 しかし、 たとえ演技であったとしても、 それが仮想世界としての宗教体験へ至る一つのプロセスであったとすれば、 本物かどうかを詮索するのは無意味なことである。 だが、 それが観光化して、 リゾートのアトラクションとなると、 話は違う。 今日バリの観光地で見られる「伝統芸能」を通じて、 今尚近代に毒されていない桃源郷バリを思い描くとすれば、 それは大変な間違いを犯すことになる。 仮想世界たるリゾート地バリの本当のすばらしさは、 そうゆう幻想にあるのではない。

 かって、 ウブドゥで踊りを見た帰り、 つい先程まで幻想的優雅さで踊っていた踊り子が、 踊りを終えて、 演奏をしていた男の子の運転するバイクの後ろに、 舞台衣装のままチョコンと横掛けになり、 闇の中に颯爽と消えていったのを見て、 感じ入ったことがあった。 それは一種まぶしい光景であった。 また別の機会には、 演奏をしていたおばさんが自ら運転をするバンに、 ガムランのメンバーを乗せて、 走り去っていったのを見た。 舞台の上の虚構世界と、 現代的日常生活の姿が、 そこではワンセットになってまったくあっけらかんとオープンに観客の前に示されているのである。 そこにバリのすばらしさがあると思う。 もし、 そこでバイクや車と言った現代的な現実生活の姿が隠されて、 バリでは今尚時代とは切り離された生活が営まれているという言い方をされたなら、 まったくそれは「許せない」。

 スピルバーグの恐竜にしてもそうだ。

 「ジュラシックパーク」にせよ「ロストワールド」にせよ、 映画とほぼ同時に「メイキングもの」の本が出て、 映画の中の恐竜がアニマトロニクスかCGか、 という種明かしがされている。 つまりスクリーンの中の仮想存在としての恐竜と、 種明かしされた現実世界の仕掛けは、 観客にとってワンセットのものなのだ。 言い換えれば、 観客はあの恐竜が、 「作り物」であることを知っているから安心をして見ているのであって、 誰かがあれは本当にコスタリカで「本物」の恐竜を撮影したものだと言ったとすれば、 誰もそれを「許さない」だろう。

 「許せる」仮想世界とは、 その仕掛けが明らかとなっているものであろう。 仮想と現実の2重写しを楽しむところに、 仮想世界の本来の楽しみがあるはずだと思う。 仮想と現実の見境がつかなくなったらアブナイ。

 「能」にしても、 演ずる生身の人間と、 付ける面とのずれがあの世界を造り出すのであって、 あれが生々しいまったくの変装のようなものであったら、 なんとも見るに耐えないものとなるだろう。

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