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基調講演

現代都市のリアリティ

大阪大学・哲学史 伊東道生


はじめに

改行マーク伊東です。

司会の土橋さんから今年のテーマはわかりにくい、 というコメントがございましたが、 なにぶん専門が哲学ですので、 わかりにくい話をもう一つわかりにくくするのが私の役目のような気がしています。

 

改行マークはじめに都市環境デザイン会議の事務局の方からお話があった時には、 私の講演内容でもある「現代都市のリアリティ」が今回のフォーラムのメインテーマとされておりました。

事務局からメモが届き、 標題は〈現代都市のリアリティ/仮想現実と都市環境デザイン〉となっていて、 それに補足がついており、 (1)現代都市における場所性の喪失、 (2)虚構空間に対するニーズ、 (3)映像情報による空間ニーズの変容、 となっています。

 

改行マークこれを、 私なりに言い換えてみると次のようになります。

  〈現代都市のリアリティ
/仮想現実と都市環境デザイン〉  

(1)現代都市における場所性の喪失
(2)虚構空間に対するニーズ
(3)映像情報による空間ニーズの変容
     1.現代都市はリアリティを喪失した。
     2.リアリティ=「場所性」(記憶、 物語、 地霊)

     3.映像情報による場所性の喪失。
     4.ニーズの対象としての虚構空間
       =欲望対象の「リアリティ」

  「まち」−リアリティ(場所性)=現代都市
   ↑               ↓
   映像情報           虚構性
 
 1.現代都市はリアリティを喪失した。

2.そのリアリティが場所性という概念で言い換えられる。

場所性というのは時には土地の記憶とか、 物語とか、 地霊、 ゲニウス・ロキというように位置づけられているものによって語られる。

3.場所性の喪失は、 映像情報の氾濫によって促進された。

4.同時にそうした映像による虚構空間というのはニーズの対象になり始めているだろう。

つまり虚構でありながら、 欲望の対象としリアリティを持ちはじめている。

 

改行マークこのように簡単な図式化をしてみたわけです。

 

改行マークこうしてみると、 問いと答えが完結していて、 それ以上何も言えなくなってしまいます。

困ったというわけで、 まずはその背景説明から始めようと思います。

そのためにポストモダニズムというのを引き合いに出したいと思います。


ポストモダニズム

改行マークポストモダニズムは最近では、 あまり聞かれない言葉ですが、 もう一度確認のために繰り返しておこうと思います。

フランスの哲学者にリオタールという人がいまして、 『ポストモダンの条件』という本でポストモダニズムの定義をしています。

それを一言で言うと、 「大きな物語」への不信、 ということです。

 

改行マーク大きな物語というのは一体なんでしょうか。

リオタールは非常に哲学的に議論をしていますが、 どういう事かといいますと、 科学いわゆるサイエンスを正しいものと正当化して、 基礎づける、 そういうものが実は近代哲学の大きな役割だったのです。

 

改行マークこの哲学は二つの分野に分かれていまして、 科学がどういう物の見方をしているかという認識論あるいは科学方法論を扱う分野と、 そういった科学で得られた知識の進歩を歴史的にどうやって展開していくかという方向づけ、 意味づけをする、 つまり歴史哲学という分野に分かれています。

大きな物語というのは一言で言うと、 歴史哲学といっていいと思います。


「大きな物語」への不信はどこから来たか

改行マーク簡単に言いますと、 科学技術の発達がある一方で、 人類の幸福とか理性とか自由が蔓延していって、 あまねく行き渡る、 そういう事態があるんですが、 そういう科学技術の発達と、 人類の幸福の間には理論的には関係がありません。

それを関係づけて見せて、 進歩とか「理想」へ進んでいくんだという形で、 歴史を意味づけ、 方向づける、 それが歴史哲学、 いわゆる「大きな物語」だったのです。

 

改行マーク現代では、 核軍備とか環境問題を見てもわかるように、 科学技術の発達と人類の幸福があい携えているということがないわけです。

ないといったら言い過ぎかもしれませんが、 少なくとも必然的な関係がない。

 

改行マークこういう事態を見ると「大きな物語」というのはハテナと思うわけです。

それを大きな物語への不信と、 リオタールは呼んだわけです。

 

改行マーク当然これは文化的状況として、 大きな物語のある意味での表現であったような「都市」への不信をも帰結するでしょう。

この場合は、 都市の発展を支えていた進歩という物語に対する不信が起こって、 結果として、 物語を支えていた目標がなくなったわけですから、 フワフワとしたゲーム感覚が蔓延する。

その感覚に見合ったテーマパークとかポストモダン建築が登場するというわけです。

 

改行マークしかもゲームと言っても、 ある時に行なったゲームと次の時に行なったゲームの内容に連続性はありません。

いわゆる洋服でいうファッションの「モード」みたいなものです。

昨年の流行と今年の流行、 来年の流行の間に何の必然的関係もない、 モードの間には時間的連続性がない、 そういった事態をさしているわけです。

 

改行マーク時間的連続性がないということは、 数年前に売れた本の題名を借りて言いますと、 「歴史の終焉」、 歴史の終わりということです。

ともかく、 こうして何か存在しているもののリアリティを保証して、 それを支えていた大きな物語、 これを本質といいますと、 それが拒否されて、 その結果、 古典的な意味で現実と仮想の区別がつかなくなって、 これまた、 一昔前にはやりました、 シミュラークルあるいは仮象とかそういうものしかなくなってしまう。

これが先進国の文化的必然性ということになるのです。


知識(教養)−人格=情報

改行マーク今の話を同じように思い切って図式化すると、 科学から哲学が引っこ抜かれたので、 知識というのが情報のようなあり方をしてしまったと言えるのではないでしょうか。

昔、 教養という言葉がもてはやされていましたが、 今は大学でも教養部がなくなりました。

知識や教養などチャンチャラおかしいというわけで、 情報というあり方でしかなくなった。

知識の「識」というのは実は人格に関わるものだそうです。

知識を重ねることは、 物知りになることだけでなく人格形成=教養(Bildung)を積むことだったのです。

引き算の式を並べ立てると、 「知識(教養)−人格=情報」となります。

 

改行マーク建築でも機能を引っこ抜いたらポストモダンになります。

言葉から意味を引っこ抜けば言葉の使い方しかない、 言語ゲームになります。

これはヴィトゲンシュタインという哲学者の言い分です。

この式はいくらでも並べ立てられます。

 

改行マーク家族から愛を引けば家族ゲームでしょうか。

同名の映画は森光監督が撮ったのですが、 面白いことにその家族ゲームが封切られた年は、 テーマパークの東京ディズニーランドが開園した年と同じ1983年です。

非常にぴったりというわけです。

私の言葉を使って一般化すると、 「存在」からそれまで「本質」といわれていたものが引っこ抜かれて「シミュラークル」、 「仮象」しかなくなった。

そういう事態です。

これがポストモダンということです。

〈ポスト・モダニズム〉

「大きな物語」への不信
(リオタール『ポストモダンの条件』)

  科学−哲学=知(情報)

  建築−機能=ポストモダン建築
  言葉−意味=言語ゲーム
  家族−愛=家族ゲーム
  都市−生活=テーマパーク
〈存在−本質=仮象(シミュラークル)〉

 
 ここから何が帰結するか。

例えば失われた本質を求める、 これはロマン主義的といいますか、 時代錯誤的なロマン主義です。

亡くなった本質を、 先ほど述べたように地霊、 地の魂とか、 物語を復活するとか、 これぞ本物という形で復活させようという時代錯誤的なものを求める。

あるいは、 この現状をこのまま肯定してしまう、 「面白ければいい」という新保守主義、 こういうものになるだろう。

そういえば、 近代建築の雄だったコルビジュエですけれども、 晩年にはロンシャンの教会というのを作って、 非常に物語的な建築を復興したのも思い出されます。

 

改行マーク以上が、 現代都市の仮想性をポストモダニズムから見た背景説明です。


都市のリアリティを問い直す

リアリティへの問い

改行マーク今述べたように、 現代はポストモダンという状況で、 一応説明はつくでしょうが、 それではいささかつまらない。

都市のリアリティを考えるという時には、 もう一度、 ちょっと考え直してみようじゃないかというわけです。

もちろん、 本来のポストモダンとは違うんだけれども、 モダニズムというか、 モダンそのものをもう一度問い直そうという姿勢というのは、 ポストモダニズムの中に含まれているはずだったのです。

モダンとはいったい何かという問いです。

 

改行マーク話を置き換えてみると、 一つは「現代都市はリアリティを失っていないのではないか、 リアリティを持っているのではないか」ということです。

実際、 私たちは今ここに居るわけでして、 この現代都市の中に居るわけなのに、 リアリティがないってのはどういうことか、 というわけです。

 

改行マークしかし、 そう言ってしまうと最初の問いとしてあげた「現代都市のリアリティ」をわざわざフォーラムのテーマにした意味がなくなってしまいます。

問題意識として、 皆さんの中にちょっと、 ハテナというのがあるから、 こういう会が開かれたわけです。

そうすると、 この「リアリティ」の概念っていったい何なんだという、 それをちょっと考え直してみないと駄目だろうと思うのです。

〈リアリティの分類〉

1.存在論的
  「…は存在するか」

2.認識論的
  「いかにして対象をありのままに捉えるか」

  (リアリズム)

 
 便宜的なものですが、 リアリティを2つに分けて考えます。

一つはリアリティを考える時に、 「…は存在するか」です。

まるで、 幽霊が存在するかどうかという感じですが、 そういう形で考えたリアリティです。

時間や空間、 場所というものと非常に結びついた側面です。

 

改行マークそれとは位相が異なるリアリティが「いかにして対象をありのままに捉えるか」です。

普通、 写実主義、 真を写すという形でいわれるような側面です。

ものを捉えるという意味で、 認識論的というわけです。

先ほどのポストモダンの話は、 この2番目のリアリズムの系譜が、 マルチメディアのおかげで、 驚異的に進歩して、 前者を揺るがすという風に読めないことはないわけです。

ただこれは一様便宜的なものとして分けたもので、 いずれ後で触れますので、 とりあえず、 ここだけで置いておいてください。


無縁としての都市

改行マークそれでは、 問いにもう一度戻ります。

最初の問いは、 現代都市はリアリティがあるのではないか、 失っていないのではないかということでした。

ただしそれを言うと、 問題意識とは反するので、 ちょっとこれは置いときましょうというわけで、 もう一つの問いが出てきます。

それは「都市にはそもそもリアリティはなかったのではないか」ということです。

別に「現代」をつけなくても、 「都市にはリアリティはなかった、 はじめからリアリティを持ってなかったのではないか」、 そういう問いが出てくるわけです。

これを考えるにあたって、 日本史の網野善彦さんの「無縁」という概念を借りようと思います。

 

改行マーク網野善彦さんはこう言ってます。

「物が物として相互に交換されるためには、 特定の条件を備えた場が必要で、 それは市場である」(『日本の歴史をよみなおす』、 筑摩書房、 1991)。

市場においてはじめて物と物とが贈与互酬の関係から切り離せる、 交易化されることではないか、 「市場はその意味で日常の世界での関係のきれた、 私流に言えば〈無縁〉の場として古くから設定されてきたと」いうわけです。

 

改行マークここで言っている、 「無縁」という概念を私はとりたい。

商品交換が可能なためには何らかの形で品物つまり商品というものを、 日常生活あるいは生産している場の次元から引き離さないといけないというわけです。

引き離したということは、 場所的にいうと、 たとえば虹が立つ場所というのがあります。

そういうあの世とこの世の境のようなところ、 あの世に通じるという意味で、 この世から無縁になるという、 そういう場所が、 時に設定されるというわけです。

 

改行マーク物と物とが商品として交換される以上、 当然人も集まるわけで、 同じような人と人との交流、 情報のやり取りも出てきます。

今風にいいますと、 人と物と情報のフローがあるわけです。

ですから、 ここでは都市とは書いてなくて市場としか書いてないですけども、 都市という風に読んでもあながち間違いではないだろう。

すると、 都市がそもそも商品交換の場であるというのは、 ものを生産する場からは無縁だというわけです。

 

改行マークモデル化してしまうと、 交換の場としての都市、 これは「無縁」だというのです。

その外に生産している場があり、 それが共同体だというわけです。

マルクス風に言うと、 共同体の果てるところで交換が始まる。

普通に言うと、 共同体と共同体が重なるところで、 交換が始まるというわけです。

 

改行マーク生産をする共同体にとって、 生産の場所というのは、 確かに場所性に拘束されてるわけです。

私はワインが好きですが、 フランス語でテロワールterroireという言葉がありまして、 それは何のことかと言いますと、 ぶどうにとって土壌soilとか、 風土とか気候などあらゆるものを含んだそういう概念です。

場所性といっていいのかもしれませんが。

ワインの名産地にフランスのブルゴーニュがありますが、 そこではぶどう畑自体をテロワールという言葉、 それに加えて、 ぶどう畑自体を気候を意味するクライメート、 クリマと言います。

わずか2〜3mの違いで、 クリマが違って、 同じぶどうを使っても、 出来るワインが違ってくるというわけです。

そこで生産されたワインは、 昔はフランスではなく、 ロンドンで取り引きされていました。

ロンドンで価格が決まる、 いわゆる生産から無縁なロンドンで価格が決まってきたということです。

 

改行マーク近代産業でも、 場所の差を利用して、 場所自体を商品差異という交換価値としているわけです。

極端な場合には交換価値のために、 地場産業のように場所性をわざわざ作り出したりするのです。

そうすると、 繰り返しですが、 都市は元々無縁である以上、 その意味での場所性がない、 つまり、 リアリティを持っていないというわけです。

その無縁の場を保証するのが、 さきほど虹といいましたが、 実は宗教とか聖なるもの、 彼岸のものだったのではないか。

これは、 網野さんの一つの仮説ですが、 私もそうだろうと思います。

画像ito01  

改行マーク虹が立って、 彼岸の世界の接点に市場が作られるんですが、 ただしそれは永続性を持たず、 虹が消えたら消えるものです。

言ってみれば都市はもともと、 バブリーな存在だったというわけです。

それを持続させようとすると、 例えば、 文書を交わし、 城壁を作る、 教会や広場ができるというパターンになっていくだろうというわけです。

これもごく簡単なモデル化で見てみましょう(図1)。

画像ito02  

改行マーク二つの山があって、 虹が立っています。

○で囲ったのが共同体のつもりですが、 共同体がどこかで交わって都市が出来る。

点線で書いたのは持続されずにうたかたのように消えるというイメージを出すためです。

それを持続させようと思えば、 たとえば、 図2のような形になるわけです。

赤い○が持続化された都市というわけです。

川、 中之島があって、 河原町ができると、 河原者が集まる、 そういうパターンです。

今だったら、 山の上が削られてリゾート開発される。

向かいの山が削られて、 例えばニュータウンができる。

川にはダムができる。

川が汚れて、 この辺にもともと住んでいた人たちは追い出されたり、 貧困と過疎の悩みに加え、 環境悪化に伴う生活圏破壊という「従属理論」の典型例がでてくるわけです。


メディアの逆照射としての都市

改行マーク無縁という概念をかりて、 都市はリアリティを持たなかったと言いましたが、 しかし、 リアリティが全然ないというものでもない。

都市に住む人はそれなりに都市にリアリティを感じてきた。

つまり別の種類のリアリティを都市自身は想定してきただろうと思います。

 

改行マーク先ほど挙げたリアリティの分類を思い出していただきたいのです。

かなり強引な解釈ですが、 共同体のリアリティを「1 …存在するか」の方に振り込んでみます。

生産に関わる時間や空間や場所と関係するわけですから、 存在論的と、 強引に読み込んでしまう。

それに対して都市というのはむしろ「2 いかにして対象をありのままに捉えるか」の認識論的なリアリズムとしてあるのだろうというわけです。

 

改行マーク分かりやすく言いますと「都市は常に描かれてきた」ということです。

描かれてはじめてリアリティを持った。

何によって描かれてきたか? おそらくメディアによってだろうと思います。

メディアによって捉えられてきて、 それが始めて都市のリアリティを構成している。

これを私の仮説とします。

 

改行マーク先に述べたような、 無縁の交換を保証したのはかつては宗教だったのですが、 それに変わって、 近代になると自立的なメディアが要求されてきたということです。

ここでは非常に広い概念でメディアを捉えていますが、 貨幣もメディアと考えると、 これを支えるのはは宗教ではなくて、 国家です。

つまり、 法というメディアによって保証される。

この貨幣メディアを理論的に保証しようというのが、 アダム・スミスの「神の見えざる手」、 いわゆる経済学というわけです。

国家に関して法というメディアを保証するのが、 「自然法」natural lawあるいは、 カントの道徳法則みたいなものだと思います。

 

改行マークいずれも近代的な意識に即して普遍性とか一般性というものを、 個人がみんな、 普遍的に持っている欲望という形に置き換えたものです。

あるいは、 形式的に倫理命題という形で語ったりする。

それから最後に国家自体、 国家メディアを保証するのは最初に挙げた、 例えば歴史哲学がそうだったろうということです。

 

改行マークこうして貨幣メディアによってモノは商品となり、 都市メディアも国民国家の枠内で整備される。

つまり、 いわゆる都市計画が行われるというわけです。

そして本来のメディアが情報メディアとして整備されていき、 写真が登場するわけです。

 

改行マーク写真というのは一つの象徴的なメディアです。

写真ができたのは19世紀の最初で、 ダゲールという人がダゲレオタイプを発明して以来、 いろいろ変遷を経ますが、 写真はしばしば都市を対象としてきたのです。

19世紀半ば写真がフランスで発明され、 それにあわせるように首都パリでも近代都市にふさわしい改造がオースマンによって行われました。

その時オースマンは、 ナポレオン3世の認可を得て、 元画家のシャルル・マルヴィルという写真家に依頼してパリの大改造の記録を撮っていたのです。

今、 その写真がなかったのですが、 その少し後のものをお見せします。

画像ito03a 画像ito03b  

改行マーク図3はパリ改造の少し後、 1870年にパリコミューンがおきた時のパリの市庁舎の写真です。

これも同じくシャルル・マルヴィルが撮っています。

こうやって、 都市を写したわけです。

 

改行マークそれからもう一つ、 ナダールという当時有名だった人がパリの航空写真を撮っています。

航空写真といっても実は気球に乗って写真を撮る、 それもつなぎつなぎで撮るわけです。

画像ito04  

改行マーク図4が1858年に気球から見たパリです。

これは合成で貼り付けてあります。

見にくくなっていますが。

 

改行マーク先ほどのマルヴィルの写真が、 都市の記憶、 つまり、 時間的な物語を記憶しているとしますと、 ナダールの写真は、 上から俯瞰的に一挙にパリを写す手法で、 俯瞰するイメージを提供しています。

両者とも非常なインパクトがあっただろうと思うのですが、 俯瞰写真の方がとくにインパクトが大きいのではないかと思います。

というのも、 写真というメディアによって都市が初めてまとまったイメージとして、 総体的に見えるものとして与えられたからです。

これが大事なことです。

 

改行マーク現在われわれが想定している都市の概念とは、 おそらく、 こうしたパリのように19世紀にできた国民国家の首都を示すもので、 それを拡大解釈したに過ぎないと、 一面では考えられます。

これをヒントに考えますと、 いろいろなことが見えるわけです。

画像ito05  

改行マーク例えば、 これでは絵画の背後にぼやっとした都市が描かれています(図5)。

ボッティチェリというイタリアのルネッサンス期の人が描いた『受胎告知』の絵です。

都市といっていいのかわかりませんが、 背景にちょっと描かれはじめるます。

例えば中世の絵画のように、 のっぺり後ろをかかずに、 あるいは人物をガバッと描くのではなくて、 背景をわざわざ描きます。

それもわりと都市のようなものが多いのです。

これを都市と名付けられるかどうかは別問題ですが、 一応都市とみなしておこうと思います。

 

改行マークルネッサンス期はリアリズムの手法が遠近法という形で確立した時期です。

題材は『受胎告知』という、 天使が来てマリアさんに受胎しましたということを伝えているだけですが、 後ろに都市が見えかけてきています。

都市のリアリティということを視覚的に当時のフィレンツェの人たちが意識しはじめたのかなというわけです。

画像ito06  

改行マーク図6は聖母子像で、 これはマリアさんの下にイエスがいる絵の一部分ですが、 背景に都市っぽいものが描かれています。

 

改行マークでは、 日本ではどうかということを見てみます。

画像ito07  

改行マーク図7は狩野永徳が16世紀後半に描いた『洛中洛外図』です。

これは洛という以上、 都市だろうと思います。

都市を描いていても、 それまでの絵巻き風のように生活を描いたり視点が時間系列的に変わっていく、 観察者が動いていくのではなく、 観察者を不動の点に据える、 上からまとまったイメージで一挙に見せるという手法です。

気球に乗って見せるみたいな形です。

これが先ほどのパリの俯瞰写真と共通するのではないかと思います。

 

改行マークもう少し考えると、 面白いことに気づきます。

自然風景を描写するよりも、 まずはじめに都市をあるまとまりのあるものとして描いているわけです。

順番にならべていくと、 都市を風景化する、 対象化するというのが一つ目にあるわけですね。

二つ目にそれの反射として、 自然が対象化され、 いわゆる風景画ができる。

抽象化すると、 文化行為が自然と文化の切断をし、 概念として自然が構成されるわけです。

三つ目にその自然概念に基づいて庭園が造られる。

四つ目に庭園の手法にのっとって都市計画が行われるという風に、 うまくつながるのではないかというわけです。

 

改行マークさらに重要なことは、 都市の場合、 一応認識論的なリアリズムといったんですが、 実は写すべき対象は空白です。

ぼやっとしているだけであって、 住んでいる人や活動している人にはその周辺の地域だけが想定される。

それが気球に乗って写真というメディアによって初めてその認識を一気に与えられた、 そういうものだろうというわけです。

 

改行マークそういうメディアによって作られたイメージそのものが都市のリアリティといえるのではないでしょうか。

一昔前に流行った言葉で申しますと「オリジナルなきコピー」、 それが都市のリアリティだろうというわけです。

都市というものが生活する場所とか、 漠然とした環境ではなく、 あるまとまったイメージとして捉えられるようになって、 リアリティというものがメディア、 視覚へ還元された。

それが私の仮説です。

 

改行マーク一言で申しますと、 都市のリアリティとはメディアの逆照射だろうというわけです。

実はこれに近い体験を多くの人はしています。

どういうことかというと、 近年、 環境問題がとりざたされていますが、 それまでは公害という言葉で言われていました。

公害というのは基本的には一国の内部の問題だったわけです。

環境問題と言うと、 国境を越えて、 例えば中国で何かするとその灰が日本に降ってくるというような形です。

いわゆる、 グローバルな地球環境問題として見なされているわけで、 私たちは地球というものを言葉だけではなく、 それこそリアリティを持って捉えられるようになった。

その結果として例えば宇宙船地球号というそういうまとまりあるものとして捉えるようになったのは、 1970年代ぐらいからでしょう。

実はその前の世代の1960年代に、 私たちは宇宙から人工衛星による地球の写真、 青い地球の写真を見ています。

それで初めて地球のリアリティが得られたのではないかと思うのです。

「〈かけがえのない地球〉(オンリー・ワン・アイス)を守らねばならないという共通感覚が、 アポロ計画の究極の所産となったのである」(佐和隆光『文化としての技術』岩波書店、 1987)というわけです。

 

改行マークこうした上から眺める、 上空を飛んでいくようなイメージとしてのリアリティ、 まとまったイメージというのが、 これまた上からする都市計画の精神と符合しているのは多分明らかでしょうし、 環境問題やグローバル、 あるいは世界都市という概念もそうなのだろう思います。

そういう意味で都市のリアリティは括弧付きのものでしかない。

あるのはイメージとしてのリアリティだけであって、 リアリティはメディアを離れては考えられないというわけです。

 

改行マークそれは程度の差なのか、 そうするとルネッサンス期の絵とか、 日本の『洛中洛外図』にも何かのヒントがあるかもしれない。

しかし質的な差なのか、 質的な差であれば、 それはもう役に立たないわけでして、 メディア自身をもう一度論じなければならないというわけです。


メディア論

改行マークご存知のようにメディア論は多数ありますので、 ここでは一つだけヒントとして挙げておきます。

 

改行マークノーマンというアメリカの認知心理学者が挙げている、 「体験型モードと内省型モード」という区別を引き合いに出します。

ノーマンによると、 人間が道具とか機械に対して関係する反応には、 体験型モードと内省型モードというのと二つあるそうです。

・「体験型」モード
・「内省型」モード
 
 体験型というのは、 外界の変化に対応して自動的に反応する。

意識せずに対処できる、 そういう習慣的なもの、 というわけです。

もちろん習慣となるには経験、 訓練、 すなわち時間が必要です。

しかし、 一度形成されると、 その修得のための時間がブラックボックス化して、 抹消され、 あたかも自然であるかのように自動的に反射するようになります。

文化的行為が自然へと転換するイデオロギー作用にも共通するモードです。

 

改行マークもうひとつの内省型モードは、 自動的に反応するのではなくて、 いったん立ち止まって反省して対応を考えようというわけです。

 

改行マーク両者は、 どっちが良い悪いじゃなくて、 特色があるわけです。

ただし、 ノーマン氏は、 現在では特に体験型モードに偏っていると批判をしています。

これはコンピューターソフトについて言っているのですが。

 

改行マーク体験型というのは、 言い換えれば面白いけれども一回体験したらおしまいという、 そういうテーマパーク式のマルチメディアとかイヴェント、 教育材料とかです。

苦労がなく入っていけるけれども、 すぐ飽きられてどっかへ捨てられてしまう。

はじめは面白いけども、 捨てられてしまう。

なぜかというと、 自分に帰ってこない。

フィードバックがないというわけです。

レベルアップがあるとしても、 判断はコンピューター、 ゲーム側にあって、 自分がそこから切り離されている。

フィードバックして自分がレベルアップしていかない。

自分の中にうまく取り込んでいくような、 そういう形になっていないというわけです。

 

改行マーク現状の情報社会とかメディア社会も同じような形でして、 コンピューターでもアクセスできるじゃなくて、 コンピューターでしかアクセスできない。

そういうおかげで、 自分抜きで、 離されていくというわけです。

だから、 具体的には内省型の自分にフィードバックできるような、 そういう形を考えて、 そのフィードバックを評価する評価基準を考えていった方がいいという提案です。

 

改行マーク内省型というのは、 今言ったように、 フィードバックして自己へ働いてくるものですけれども、 ヴァーチャルリアリティの持つ隠れた意味とちょっと関係があるというんです。

 

改行マークリアリティの話に戻しますと、 都市のリアリティというのは、 何かもとからあったものでもなく、 むしろメディアを通してリアリティを作り出したというわけです。

認識論的と言ったのですけれども、 本当はそれは正しくなくて、 与えられたものについて、 何かどういう態度をするか、 描写するか、 描くかというのではなくて、 それに積極的に関わること、 いわゆる実践的にするという形です。

 

改行マーク先ほどはリアリティの二つの分類を挙げましたが、 リアリティには、 存在論的、 認識論的に加えて、 実践的という、 作り出すという意味が出てきます。

そういう三つ目の分類が必要でしょう。

ヴァーチャルリアリティの隠れた意味もそこにあります。

ヴァーチャルリアリティというのはたしかに見た目が実物そっくりということに重心があります。

しかし、 その世界に入っていって、 物を動かすことができる、 つまりその世界の中で対象に働きかけて、 それを変えることができることにヴァーチャルリアリティの隠れた意味があるのです。

それがリアリティでしょう。

つまり、 実践的ということです。

ただし、 いつでもその世界の外に出られるということが仮想的という部分なのです。

外に出られるけれども、 複数ある世界の中に序列をつけないでおく。

これぞ本物といわない。

それが仮想世界の性格だろうというわけです。

問題は、 どの世界がリアルという問いをするよりも、 その世界のリアリティを作っていく根拠をどこに置いていくか、 それの方が重要なことなのだろうと思います。

 

改行マーク現代の物理学でも、 単純に事実を観察したり実験したりというよりも、 巨大な実験装置を使って、 特殊条件の下で電子なんかを瞬間的に作り出して、 理論を検証すると言います。

つまり、 つくるということです。

リアリティをつくるという、 そこに一つの重点を置いてもいいかなと思います。

 

改行マーク余談ですけれども、 体験型と内省型というのは実は循環しているんだと思うのですね。

ピアノの練習とかコンピューターのキーをブラインドタッチで押さえていくというのは、 訓練によって行われるのですけれども、 意識的にやっていたのを自動的にできるように、 下の図で言えば1番の経路をたどるものです。

あるいは、 野球の選手が自分のバッティングフォームをビデオでチェックする、 つまり反省するってのは体験型から内省型へという2番の流れです。

自動的に振ってたのを、 意識的に見てみるというわけです。

・「体験型」モード
 1↑    ↓2
・「内省型」モード
 
 内省型から体験型というのを別の言葉で言うと、 記憶、 体に覚えさせる、 酔っ払って何かわからないけど家に帰っていたというものです。

前に述べたように身体的記憶あるいは、 習慣といってもいいでしょう。

丸茂先生が書いておられた「なじむ」というのもこの辺に近いのかもしれないですね。

 

改行マーク一方、 体験型から内省型というのは、 意識化する、 反省するというわけです。

一番の方は時間をかけて同一化していく。

反省するというのは、 離してみるというわけですから、 断絶してみる、 2番がそうだろうと。

もし、 同一化するというのと、 断絶化するというのを考えると、 講演要旨の最初に書いた、 フォーラムの題でもある「誘惑」という関係も非常にこれに近いかも知れない。

 

改行マークひょっとすると、 物語の機能というのも、 この二つの機能を持っているんではないか。

普通の物語、 西洋の中世の騎士物語、 ロマンスといいますが、 あるいは、 ゲーテとかの書いた小説は教養物語といいますが、 同一から始まって、 くるっと自分に帰ってくると、 そんな感じです。

それから現代のラブストーリー、 いわゆるラブストーリーもそうだったし、 映画『スピード』のセリフで「危機的状況で結ばれた二人は長続きしない」というのがありますが、 内省型からまた内省型へ戻っていく、 いっしょになってまた別れてしまうというわけです。

 

改行マーク体験型というのは、 多分に物語を仕掛ける人が主導するのだろうと、 観客に負担を与えずにストーリーを楽しませる。

ただし飽きられるわけですね。

飽きられるから物語をどんどん作っていかなければならない。

一方、 内省型というのはむしろユーザー主導型で確かに負担感はあるんだけれども、 ユーザーが物語の解釈を行うわけです。

解釈を行うからストーリーのマンネリを打破していく。

いわゆる古典とかクラッシックの一つの側面です。

こういう風に読めるのかもしれないです。

とりあえず、 現代は体験型にちょっと偏りすぎているというのが、 ノーマンの批判というわけです。


交換の場としての都市からメディアへ

改行マークさて、 最後の話になりますが、 話を元に戻しまして交換の話をいたします。

先ほど、 網野さんの話を引用して「都市は無縁」という話をいたしましたが、 彼はもう一つ「贈与互酬」という話をしています。

贈与論といいいまして、 モースという人がいいはじめたもので有名なのですが、 つまり交換を二種類に分けてみましょうというわけです。

〈二種類の交換〉

1.共同体での交換=贈与互酬
  ・二者関係
    私−相手、 私−もう一人の相手、 …
2.都市での交換(無縁)

  ・三者関係
    私−相手−第三者
    →〈私−第三者〉

 
 共同体でもやはり、 物の交換は存在しています。

ただ、 それは都市における交換とは違うわけです。

交換には共同体での交換と都市の交換の二種類ある訳で、 その共同体での交換を上の贈与互酬関係というわけです。

つまり贈与とは共同体の結束を促進する交換のことで、 お中元やお歳暮にあたります。

基本モデルが二人の間の関係、 つまり二者関係なのです。

しかも、 その二人が同じもしくは非常に近い時間空間内で交換し、 交換の比率は二人の間で決められる。

別の相手と交換する場合は、 また別の交換比率になる。

同じ物でも、 ある人と交換するときは高くなるし、 別の人とは低くなる、 つまり顔の見える相手が交換相手という訳です。

お歳暮とかお中元を贈ったりとか受けたりするのは相手の顔をとりあえずは描いてみる、 品定めをする、 できれば相手に直接手渡した方がいいし、 しかも贈られた人はすぐ返礼をしなければならない。

そういう形で共同体の結束を高めていくわけです。

 

改行マークこれに対して、 都市における交換というのは、 市場を形成する商品交換でして、 三者関係でしょう。

つまり、 私と相手ともう一人、 第三者を想定しています。

3というのは量が1個増えたというわけではなくて、 質的な変化を起こす。

第三者とか三人称、 つまり不特定多数というわけです。

交換する現場、 時間的にも空間的にもその現場にいない第三者に対しても、 同じ交換比率を適用するというわけです。

どういうことかというと、 物の価値が抽象化するわけです。

同時に交換関係とか交換の相手も抽象化して目にみえなくなって、 そういう目に見えない交換機能の場所として、 また目に見えない都市が登場してくるというわけです。

それを目にみえる形にしたのが、 たとえば写真だったりしたのです。

 

改行マーク近代はこうして交換相手の第三者をまさに無縁の人とか任意の人に求めて、 それが都市の広がりにつながっていきました。

先に述べたいくつかのメディアあるいは、 その理論として支えになるような経済学とか法とか倫理学はその過程で出てきたのです。

そうすると、 自分から出発して第三者を指向するような、 第三者を含んだ形で指向するような一般的なルール、 しかも第三者は分けのわからない存在ですから、 普遍的に妥当する規範のようなものを確立することが課題になるわけです。

しかしいったんルールが確立された後は、 ルールが持っていた自己の行為を他者に照らして検証するという規範性がなくなっていき、 もはや、 ルールが取り合えず今そうなっているからということ、 ルールの規範性ではなく事実性しか残らなくなるわけです。

 

改行マークアダム・スミスは神の見えざる手というのと同時に、 相手へのシンパシィー、 共感ということを強調していたのです。

それがなくなって、 三者関係といっても、 相手がみんな第三者に吸収されてしまうというわけです。

もう自分と顔の見えない交換先、 あるいはせいぜい確立されたルールしかなくなってしまって、 そのルールを自分がどう自己解釈していくか、 それしかなくなってしまう。

場所といえるものにしても、 基本的に自分の場所しかなくて、 自分から見えないような交換機能がどんどん広がっていき、 私と果てしなく広がっているメディアしかなくなってしまうというわけです。

いってみれば、 私以外のすべてがメディアしてしまうような、 汎メディア化してしまう。

 

改行マークこれがどういうことになっていくかというと、 私的、 プライベートな空間が爆発的に増大する。

裏返すと、 公共性というのが欠落してしまうというわけです。

ウォークマン、 携帯電話、 インターネットはすべて汎メディア化した私的空間の増大、 おしゃべり空間の増大を表現しています。

通信(私)が放送(公)を飲み込んでしまい、 放送も公共性をある点で保障していたジャーナリズムが欠落して差別的メッセージが批判もなく通用するように変質してしまいます。

都市に関わる例としては、 多木浩二さんが岩波新書で『都市の政治学』を書いています。

 

改行マーク多木さんはそこで私生活の拡大について言及しています。

東京のニュータウンをあげて、 人間の社会的生活が私生活に変貌していくということを指摘しています。

―「デザインはかつての箱形の高層アパートを避け、 低層で入り組んだ構成をもち、 色瓦の屋根を架けるなど、 きめ細かに人びとに快適な環境を提供しようと努力しているのである。

しかしそのために、 それは身体を含む(この点が特徴なのだが)人間の社会的関係が、 私生活として見えてきてしまうのである。

」ここで例に挙げられているのは新宿から40分くらいのところにある多摩ニュータウン、 南大沢です。

南大沢はイタリアの山岳都市をイメージして造られたところですが、 今は「ベルコリーヌ南大沢」と呼ばれています。

そこをみていくと、 私生活の蔓延がわかるということです。

 

改行マーク振り返ってみると、 ニュータウンの歴史もここから考えることができます。

千里ニュータウンとか多摩ニュータウンの第一期の地域は、 人が箱型アパートにとりあえず住んで、 とりあえず私生活を確保する、 そういうものだった。

そこからこの南大沢とか三田、 名塩もそうでしょうか。

そういう地域は私生活の拡張していく場、 私生活の確保から拡張していくものです。

この現在の姿を第二期だとすると、 これからは第三期のニュータウンの発想法、 別のコンセプトが必要なわけです。

ところがどうも、 住都公団の方は第三期のところで、 腰がひけてしまったようです。


場所性を公共性として読む

改行マークというわけで、 私的な空間、 プライベートな空間が爆発的に増えました。

これを裏返しにいうと、 公共性が失われてしまった。

これが、 われわれが現代都市に対して、 リアリティがあるかどうかという問題意識を生むきっかけの一つになっているんではないかと思います。

 

改行マークというのも、 確かにメディアによって都市はリアリティを得たのだけれども、 メディアというのは決して都市のリアリティをそれ以上豊かにしてくれることはなかったのです。

例えばよく言う「大阪はお笑いとたこ焼きの町」という形でむしろメディアが大阪のリアリティを貧困化させていくというわけです。

日常生活で言うならば、 携帯とかインターネットに囲まれて、 非常にのっぺりとした、 私的なプライベートなメディア空間に生きるわけです。

そうすると、 大阪がお笑いとたこ焼きの町という貧困なものがふさわしいのかもしれませんが。

 

改行マークそこで逆に公共性というものを持ち出してみたいというわけです。

ただ公共性とはいうけれども、 やはり最初に上げた時代錯誤に陥りたくない。

公共性を持ち出しても、 例えば国に還元されてしまったり、 市場経済に吸収されてしまったりするわけで、 もう1個柱を立てようというわけです。

それは人権です。

これもまた非常にバイアスのかかった言葉であまり使いたくないような言葉ですが、 とりあえず人権と言いましょう。


人権を基礎としたデザイン

改行マークヌスバウムというアメリカのフェミニストが『アリストテレス的社会民主主義』の中で「具体的生活の人権」ということを書いています。

ごく普通の次のようなことです。

1)若死にすることなく、 完結した人生の最終地点にいたるまで生き抜くことができる。

2)確固とした健康を保つことができる。

3)不必要な苦痛を避け、 楽しい経験を持つことができる。

4)五感を利用して、 想像したり思考・推論を行うことができる。

5)自分たちの外部に存在する事物や人物に愛着を感じることができる。

6)善の構想を形成するとともに、 自分自身の生活を批判的に振り返ることができる。

7)他者のために、 他者に向かって生きることができる。

8)動植物や自然界に対する配慮と関係を保ちつつ生活できる。

9)笑い、 遊び、 娯楽活動を享受できる。

10)他の誰のものでもない自分自身の生を、 自分固有の環境と背景に囲まれて生きることができる。

 

改行マークそもそも人権というものは、 ネガティブな規定として差別に対するものとしてあるのですが、 ポジティブな規定としての人権は実は非常にあいまいです。

近代的人権は抽象的なもので、 それが逆に普遍性をもったわけですが、 現代では人権の具体的な中身、 あるいは現実の経験を具体的に語るということをしてこなかったつけがきている。

また、 そういう言葉を、 私たちは案外持ってなかったんではないかということです。

 

改行マーク余談ですけれども、 場所とか空間を論じるときに身体論と同じ落とし穴に当てはまることがあります。

身体というものを非常に自然的なもの、 あるいはリアリティの根拠として考えてしまって、 その延長上に空間構成を考えていくわけです。

前に触れたように「体験型モード」を形成した時間を忘れてしまったことから生じるイデオロギーにつかっているわけです。

でも実は体を動かすとかそういう身振り、 所作というのは非常に文化的なものです。

当然空間でも非常に文化的なものです。

フランスの人類学者レヴィー=ストロースの報告によると未開の村で居住空間を西洋式にしてしまったおかげで、 伝統的慣習や振る舞いがなくなってしまったという話があります。

 

改行マーク話を戻しますと、 公共性を考えるとき自然環境じゃなくて、 そういう権利の可能性の場を想定していくのはどうか。

その権利の可能性を現実化していく必然性として、 環境デザインを捕らえたらどうかと思います。

現在、 デザインが陥っている困難の一つというのが、 機能と構造が分離してしまっているということだと思います。

機能から構造が導けないことといってもいいでしょう。

材料とかそれを構築する上での制約、 あるいはかっては様式という名前で呼んだものを全部クリアしてしまって、 設計者が決めた、 設定する機能から出てくる構造が、 テクノロジーの発達によって、 非常に無数にある。

ある機能から構造が出て、 それが無数にあり、 しかも機能自身が見えないというわけです。

ですから原理上解くことができても、 実は無数にありすぎて、 最適解を選ぶことができない、 根拠がないというわけです。

 

改行マークというわけで、 そういう問題を踏まえた上で、 権利の可能性の場を設定して、 それを現実化するものとしてデザインを考えてはどうかというわけです。

つまり、 リアリティは作るものだというわけです。

デザインとはリアリティを作るものとはっきり主張して、 そのデザインの根拠は何かをやっぱり問わなければならない。

私はそれをたまたま公共性とか人権、 その言葉がいやなら具体的なこういう経験と呼んだわけですが、 すべてリアリティというのは何かがある、 あるいは、 何かを写すではなく作ることにあるというわけです。

ですからデザインがリアリティを作り、 そのデザインの根拠を例えば具体的に語られる経験にしてはいかがですかというのが私の提案です。

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