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問題提起2

集客プランニングの分野から

阪南大学 貴多野乃武次


「人を集める」と「人が集まる」との違い

改行マーク私はこの春まである企業にいまして、 主に人を集める仕事あるいは金を儲ける仕事をやっておりました。

どうしたら人を集められるかということを中心にいろいろなプランニングをしながら、 また一時現場にもいたわけですけれども、 どうも人を集めるということと人が集まるということは少し違うんではないかと思い始めました。

このへんをきちんと考えないといけない時代になってきているような気がします。

 

改行マーク「人を集める」と「人が集まる」の違いを、 マーケティングコミュニケーションの分野で言うと、 まず「人を集める」というのは主としてマーケティングコミュニケーションという、 できたものについて宣伝して人を集め、 広報して人を集め、 販売促進のいろいろな制度をつくり、 イベントをうって人を集めるということです。

これは当然、 人を集める対象となる商品や魅力が既にあるという前提なわけですね。

ところが人が集まるということになると、 これは商品作り、 製品作り、 魅力作りという分野になってくるのではないかと思っています。

人を集めるということが今のようなままでいきますと、 どうも危うくなってきてはいやしないかというふうに思います。

特にインターネットはもう都市であるということを言われますと、 どうもこれから人を引き続き、 集められるのかということが大変心配なわけです。

これが第一の私の疑問です。

 

改行マークそれから二番目には、 「人が集まる」ということの方が実は重要ではないかなと思っております。

人が集まる非常にプリミティブな形の一つには、 たとえばラーメン屋さんに並ぶとか、 ギョウザ屋さんに並ぶというような行列に見られます。

それからもう一つ、 東京に巣鴨のとげぬき地蔵という、 一時おばあちゃんの原宿という言われ方をした街があります。

特におばあちゃんがたくさん詰め掛けている。

これなんかは人が集まるということの非常にプリミティブな形ではないかと思います。

さらに、 そういう人が集まる究極の仕掛けは、 どうも宗教のようなものにありはしないか。

私はよくテーマパークとか遊園地などのプランニングをやってたわけですが、 究極のテーマパークというのは宗教ランドのようなものではないかと思っています。


テーマパークのテーマとは

改行マークところでバブル以降、 テーマパークというのはあまりかんばしくない。

ところが一方では、 大規模な集客施設を作る時にテーマというのを追い求めているケースが相変わらず大変多いのです。

例えばテーマレストランであるとか、 あるいはテーマショップであるとか、 あるいはテーマタウンのようなものまで生まれかねない状況です。

なぜこんなにテーマなるものを皆さんが求められるのかというと、 どうも大きな世界を理解するモデルとしての物語がもうなくなったから、 そういう世界を求めるために物語を探しているというような状況があるのではなかろうかと思います。

 

改行マーク世界理解のモデルとしての物語の一番代表的なものは、 聖書だろうと思います。

しかし現代では、 そういう世界理解のモデルが失われている。

物語を喪失した時代であるが故に、 企業の事業活動の分野でもいろいろと物語を探しているわけです。

 

改行マーク物語を作る時は物語文法にそって普通は作るわけです。

物語文法というのは、 テーマがあって主人公がいて、 時間と場所が決められて、 趣向でもって展開していくわけですけれども、 今よく作られているテーマパークは、 そういう厳密な意味での物語文法にそって作られているケースは多くありません。

私から言わせてもらえば、 デザインモチーフのようなところでテーマを使っているぐらいではなかろうか。

だから実は手塚治虫のテーマパークが欲しいだとか、 あるいは宮崎駿のテーマパークが欲しいというようなことが、 常にこういうテーマパーク業界では出てくるわけです。

現実にいろいろ計画が進行しているようですけれども、 やはり手塚治虫や宮崎駿が作った世界の魅力と物語文法の構成の魅力に、 皆さんが引かれるから追い求めているのであろうと思います。

 

改行マークテーマパークを作る時には、 場所や時間、 趣向などを三次元で展開するのが普通です。

その時に宇宙、 深海、 地底や過去、 未来などがテーマとして取り上げられます。

もう一つの典型が外国村です。

しかし、 こういうテーマパークは三次元の世界で多くの金がかかるしリニューアルも大変しにくいということから、 ヴァーチャルリアリティの技術で割合簡単にできるという時代がきつつある。

そういう時代がくるともうテーマパークへ行かなくても良い時代になってしまって、 集客施設は大変困るのではなかろうかと思っています。


人を集める「欲望の三角形」

改行マーク本当にそれではそういう技術が開発されたらもうテーマパークへみんな行かなくなってしまうのかというと、 いや、 そうではなかろうと思っていろいろ考えているのです。

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改行マークフランス生まれのジラールという人が「三角形的欲望」というような言葉を使っています。

一言で言うと、 「人は他者の欲望を模倣して欲望する」ということです(図1)。

 

改行マークジラールの言う欲望の三角形、 三角形的欲望は、 欲望を媒介する人がいるということがミソなのです。

すなわち欲望の主体、 サブジェクトはその欲望媒介者が欲望対象物を見ることに欲望する。

こういう構造を欲望の三角形というのです。

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改行マーク例えば遊園地には遊戯機なんかのアトラクションがありますが、 お客さんがアトラクションを利用する、 作為するところに快楽が発生するという部分だけで今まで見ていました。

しかし実はもう一つ、 他の顧客というのが重要になるということです(図2)。

 

改行マーク他の顧客と私が視線を交わすこと、 ここが非常に重要です。

この視線を交わす中で、 私も他の顧客との同一化欲求を持ってアトラクションを利用してみようということになって、 遊園地でもこの三角形の構造ができます。

こういうアトラクションを作らないと、 お客さんはアトラクションを末永く利用してくれないという状況でして、 例えば最近の遊園地には30人ほど乗ってでんぐり返るような遊戯機がありますけれども、 あれは乗っている人だけが楽しんでいるのではなくて、 乗っている人が見ている人を見て楽しみ、 見ている人も乗っている人を見て楽しみ、 見ている人が次乗ってみようかなという三角形の構造があるのです。

だからこういう三角形で考えていかないと、 お客さんは集まってこないのではなかろうかというのが私の第一の考え方です。


都市とメディアの関係について

改行マーク次に都市とメディアの関係についてお話しします。

要するにインターネットなんてものが出てきて皆さん動かなくったって良いというようなことになると、 実は集客施設は大変困るわけです。

事実本当にそういうものが完璧な形でできれば、 たぶん今日のような会議をしなくても良いということになりはしないか。

それでもなおかつやはり皆さんが集まるわけです。

なぜなのだろうか、 ということを考えてみます。

 

改行マークメディアを考えてみますと、 メディアには集客するメディアと集客にはあまり貢献しないメディアとがあるというふうに考えております。

それは例えばメディアの種類で見ますと雑誌とか新聞というのは集客系のメディアであって、 テレビやラジオは過渡的なメディアで、 インターネットになるともうほとんど集客しない分散型のメディアであると言えます。

 

改行マーク例えばテレビの旅行番組を見て、 どこかへ行きたいなという場合、 テレビは集客に寄与するわけです。

一方では、 テレビの旅行番組を見て、 もうそれで旅行をした気分になってしまう。

こういう気分になって満足するというのは、 実際には特に足腰が弱くなってくるお年寄りがそうかもしれません。

そういうメディアが代替するという、 先程の誘発ではなくて代替するというようなことになってくると、 集客には大変なマイナスです。

テレビでディズニーランドを見ますと、 子供たちがディズニーランドへ行きたくなる。

ところがディズニーランドを詳しく紹介するようなもので、 しかもヴァーチャル技術なんかが使われるようになってくると、 もうディズニーランドへ行った気持ちになって、 行かんでもええわと言い出す。

こういうようなことになると、 集客施設としては大変困るわけです。

 

改行マークそれからもう一つ、 メディアの進化を見ると形態、 形が変わってきています。

これはコンピュータの進歩や電話の進歩にも見られますが、 業務用から家庭用、 個人用さらに最近は携帯用というところまで進化してくると、 だんだん集客施設へ行かなくても良いようになってくるのではないかと思われます。

それでは携帯電話を持つと、 皆さん会うこととか集まることが少なくなるのかというと、 実際はどうもそうではなさそうです。

あれは単なる電話のお遊びなんだと割り切ることもできるかもしれませんけれども、 大きく見るとやはりこういうメディアというのは集客には寄与していない。

かえって社会を分散化していくところに寄与しているのではなかろうかというような気がします。

 

改行マークホリプロが「ヴァーチャルアイドル伊達杏子」というのを開発しました。

私はこれを大変興味を持って見ています。

まだ伊達杏子さんはそれほどうまくできていないようですが、 伊達杏子さんのような存在がヴァーチャルなアイドルとして出てくるとこれは大変脅威だと思います。

脅威だというのは集客施設に脅威だというだけではなく、 人間存在そのものにとって脅威なのです。

例えばヴァーチャルリアリティでデートやセックスができる、 そんな世界まで行きはしないかということを大変恐れているわけです。

〈BitCity〉

〈これまでの都市〉     〈BitCity〉

     空間的           非空間的
     実体            非実体
     集中化           断片化
     同期            非同期
     狭帯域           広帯域
     のぞき           参加
     接触            接続
 
改行マークMITのW. J. ミッチェルという先生が、 『City of bit』という本をお書きになっています。

そこに書かれているBit Cityというこれからの街と、 これまでの都市を比較したのが上の図です。

今までの都市は空間的であったけれどもBit Cityになれば非空間的になる。

あるいは実体化していたことが非実体化され、 集中化した都市が断片化され、 同期で動いていたのが非同期になるというわけです。

 

改行マークBit Cityがどんな都市なのかということを簡単に紹介しますと「Bit Cityは地表のどの特定の場所にも根差していない街であり、 アクセスのしやすさや土地の価値ではなく、 接続や帯域幅の制約で形が決まる。

そこでの活動の多くは非同期で行なわれる。

そこに住む人々は非実体化し断片化して一群のエイリアスとエージェントとなって存在する。

Bit Cityの中での場所は、 石や木材という物理的な材料ではなくソフトウエアによってヴァーチャルに構築される。

そして場所と場所はドアや通路や街路でなく論理的なリンクで繋がれる」。

 

改行マーク本当にこういうBit Cityができたら、 私は多分もう人びとは集まらなくて良いだろうと思うのですけれども、 ミッチェルさんもやっぱり集まると言っているのです。

ところがなぜ集まるのかということを言っておられない。

それが解ければ、 集客産業で大儲けできるわけですが、 そんな解はないわけです。


人はなぜ集まるのか

改行マークなぜ人は集まるのかということに関連して、 エリアス・カネッティという人が『群集と権力』という本の中で次のように述べています。

カネッティは群集を5つに分類し、 それら群集の特質として

(1)群集は常に「増大」することを願う。
(2)群集の内部には「平等」が存在する。
(3)群集は「緊密」さを愛する。
(4)群集はある「方向」を必要とする。
という4つの特質を挙げています。

 

改行マークこの4つの特質は、 例えば皆さん方が行列を思い起こされてもその通りだと思われます。

また、 私の故郷である大阪の岸和田で行われるだんじり祭などを見てましても、 まさにこの増大、 共同、 緊密、 方向という4つの特質が見えます。

 

改行マークこの4つの特質を一言でまとめて言うなら、 「共同性」という言葉になりはしないかというところで、 次のキーワード「共同性」について考えてみます。

その共同性ということについて、 上田紀行さんという東工大の先生が『宗教クライシス』(岩波書店)という本で言及しています。

人類誕生の500万年前ぐらいから狩猟・採集社会が始まり、 農耕社会が始まったのは実はわずか1万年前であり、 産業社会が始まったのはわずか200年前に過ぎない。

そういう中で狩猟・採集社会では共同性が組織の原理として強く働いていたと。

ところが農耕社会になると差異性というのが強く出てくる。

差異性というのは通時的差異と共時的差異です。

通時的差異というのは今日よりも明日のほうが良い、 明日よりも明後日のほうが良い、 こういう差異です。

共時的差異というのは、 私よりもあの人のほうが良いというものです。

この二つの差異が出てきましたので、 共同性というのが非常に薄まってきた。

産業社会になるとまさに差異化一辺倒の社会です。

 

改行マークところが人間というのは実は499万年近い共同性の記憶を遺伝子として持っているから、 それが懐かしくてやっぱりこの共同性を保証する、 代償する形の装置を考えるのですね。

そういう社会的な装置が必要であると。

その装置の中に祭や宗教、 近代に入って共産制というのがあったのではなかろうかというのは私の考えです。

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改行マーク従って人間が生きている限り、 狩猟・採集社会の共同性の記憶がずっとあるから、 いくらBit Cityができたってやっぱり人は集まるという非常に無謀な論議を私はしているわけです(図3)。

 

改行マークこれは、 人はなぜ自然を求めるのかということについて、 人類の祖先である樹上生活をしていた猿の6500万年の記憶があるから、 人は緑の中で安らぐ、 だから人は自然を求めるのだという河合雅雄さんの考え方がありますが、 実は私はこれを真似たわけです。

従って人はBit Cityになってもやっぱり集まるのではなかろうか。

そういう意味では、 集客産業はまだまだ可能性があると思っております。

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