また、 さらには、 テレビやコンピュータのモニター、 あるいは薄い皮膜のような液晶の操作パネルの作り出すもう一つの虚構の世界に生きています。 いったい、 いつから、 どうしてこうなってしまったかということを知る必要があるでしょう。 そしてどうすれば良いのか、 それを少しでも明らかにすることがこのシンポジウムの目的の一つだと思います。
現代都市のリアリティということを考える上で、 非常に重要なテキストがありますので、 まず最初にそれをご紹介いたします。 SF作家のバラードの文章ですけれども、 1974年の作品「クラッシュ」の序文に、 彼は次のように書いています。
「現代では、 現実と虚構のバランスが劇的に変わってしまった。 その役割は逆転している。 われわれの住む世界は、 あらゆる種類の虚構に支配されている。 われわれは巨大な小説の中に生きている。 作家は小説の中で虚構を作り出す必要がなくなってしまい、 作家の仕事は現実を作り出すことになる。 また過去においては自分の外側の世界が現実で、 内側の世界は虚構であったが、 今ではこの内側の世界に現実を探さざるを得なくなってしまっている」
非常に誇張した表現ではありますけれども、 現実世界と虚構の世界は反転したということを、 24年前に言ってしまっているということが重要であると思います。
次に、 いったいいつからこうしたことが起こり始めたのかということですが、 これにはいろんな見方があります。 都市を形成する建物の外観と内部の機能の一致、 不一致、 あるいは素材やスタイルが本物かどうかとか、 あるいはベンチューリのラスベガスのダックというそういう議論や視点もあります。 けれども、 ここでは少し別の視点からこの現象を見ていくことにします。
ウィーンには、 リンクシトラーセと呼ばれるリング状に都市を巡る円環道路があります。 ウィーンという都市を描くときに、 人はまずこの円を描くことから始める。 その意味でウィーンは円形の都市です。 ナチス・ドイツはこのウィーンに6基の要塞を建設しています。 これは、 フラックトゥルムと呼ばれている要塞ですが、 この要塞はもともと避難シェルターとして計画され、 そこに攻撃から護るための砲撃装置が設けられたものでした。 内部には、 エレベータ、 エアコンディショナー、 対毒ガスフィルター、 発電機、 医療施設、 男女別シャワーつきの衛生設備が備えられていて、 1基で最大3万人が避難することが可能でした。 この6基は、 正確にはレーダー塔と砲撃塔の2基の組み合わせが3セットありました(写真2)。
レーダー塔の上には大型レーダー、 そして一方の砲撃塔には88mmの高射砲が設置されていました。 一方の機能は、 見えない敵を把握し、 一方はこれを攻撃するという、 異なる役割を担った組み合わせです。 そして、 この3組の要塞は、 ウィーンの円環道路を囲むような三角形の頂点に配置されていました。
ただ、 このフラックトゥルムには論理的に極めて奇妙な点があります。 それは、 フラックトゥルムが緊急時に人々が避難するシェルター、 すなわちその所在が敵側からは決して見えてはならないはずの物なのに、 極めて堂々とそれも地上高く構築されている、 ということです。 言うまでもなく、 真先に攻撃の対象になります。 最も安全であるはずの場所でありながら、 都市の中でもっとも危険な場所がこのフラックトゥルムだったというわけです。 ナチス・ドイツの建設した要塞の中には、 このような形式の要塞は一つも存在していません。 シェルターは必ず地中に埋められ、 外からは見ることができない。 敵から見えないこと、 それがシェルターの持つべき最も重要な機能です。 大西洋要塞や西部要塞、 ベルリンのヒトラーの大シェルターも地中深くに埋設されています。
ハンブルグ、 ベルリンにもこのシェルターが建設されていますが、 ウィーンと全く同じ形状をしています。 こうなった理由としては、 短期間で完成を目指していた、 ということも考えられます。 しかし、 シェルターがランドマークになるという本末転倒した、 矛盾に満ちた機能と形態の関係はどうにも説明がつきません。 ナチス・ドイツの都市計画や建築には、 非常に不可解な点がいくつもありますけれども、 このフラックトゥルムにみられるような都市を護るための攻撃と防御の機能が、 あたかも極めて意図的に視覚化されたような形態には、 これが機能的なものとしてだけではなくて、 都市を構成する形態エレメントとして、 もしくは政治的な記号として位置づけられていたということを考えさせるのに、 十分なものがあります。 決して見えてはならないものが視覚化されていたわけです。
さらに、 もう一つ考えられることは、 この建設時期が1942年から44年だったという点です。 これは、 ドイツ・イギリス間のレーダー戦の最も白熱していた時期で、 レーダーを欺く偽装方法の開発も進められていた時期です。 現代の湾岸戦争で、 世界中が目の当たりにした電子線の発端がここにあります。 大西洋要塞においても、 光学的な距離測定装置から巨大レーダーへ装備が移行していた時期です。 もしも、 目で見ることを必要としないレーダーによる攻撃と、 レーダーによる防御を双方が行った場合、 要塞の形がどのような形であるのかとか、 またそれが地中にあるのか地上高く構築されているかは、 全く無関係な事項となります。 ある意味では、 要塞は強固でありさえすればそれで良いということになります。 電子の目で捉えられた都市と人間の目で捉えられた二つの都市が、 ここには分かち難く重ね合わさっているということができます。 ここでは、 建築や都市の形態と機能の関係が、 すでに一義的には論じることができない、 そういう時代が始まっていたということができます。 現在のコンピュータネットワークが作り出す都市イメージをさかのぼっていくと、 どうもこのあたりにその発端の一つがあるように思われます。
1990年というのは、 湾岸戦争の年ですが、 この年私たちは極めて奇妙な体験をしました。 家庭で人々が仕事を終えて平和に食卓を囲んでいるとき、 テレビではアメリカのミサイル弾がイラクを攻撃する様を克明に映し出していました。 食事をしながらその日の攻撃の特徴・テクニックを丁寧に解説する軍の担当官の説明に耳を傾けていました。 まるでテレビゲームのようにワイヤーフレームの照準が、 目的を的確に捕らえてそこをピンポイントで爆撃していく。 どのような場所にいても、 軍事衛星からの正確な情報を使用して、 決して無駄な血を流さず、 またアメリカ国民の税金を決して無駄に使わず、 必要な攻撃を必要な時だけに行う。 アメリカは、 あなたがどこにいてもあなただけを殺すことができます。 核よりもはるかに強力な力を持つテクノロジーの存在を、 われわれはこの時目の当たりにしました。
こうしたテクノロジーを前にして、 もはや国家は個人を護ることはできない、 敵は決して国境で食止められることはない、 国境とはいったい何なのか、 きれいさっぱり意味を失った国境の概念を私たちはこの時お茶の間で確認しました。 世界の単位はすでに国ではなくて個人であるということ、 もはや都市と田舎を隔てるもの、 国と国を隔てるものは存在しないこと、 そしてそれと同時に大切なことは、 われわれの内部と外部、 現実と非現実の境界すら失われ始めたことをここではっきりと感じ取ったはずです。 われわれはモニターの中にいるのか、 モニターを見ているのか。
ここでバラードの言っていたような状況は、 すっかり越えられてしまっているということがわかります。 ここでは、 虚構と現実が逆転しているどころか、 その境界すら失われてしまっていると言うことができます。 建築家のピーター・ウィルソンや評論家のポール・ヴィリリオの表現を借りれば、 都市を切り分けるのはモニター画面だ、 ということになります。 つまり、 建物の現実の壁によって都市が作られ、 分節されるのではなく、 私たちの都市は虚構ともいえる電子テクノロジーが作り出すモニター画面によって捉えられているということです。
さて、 ここでシンポジウムのための問題提起をしておきたいと思います。 現代において建築や都市を考える時の最も大きな問題は、 テクノロジーのあり方がこれまでとは全く根本的に変わってしまった、 ということです。 それは、 かつてのようにこれがテクノロジーである、 と対象化して捉えることすらできないものになっているということが特徴です。 見ているのか、 見られているのか、 それすらもわからない。 またそれは、 修正したり、 あるいは簡単に排除できるような性質のものではなく、 日常の中にコンタクトレンズのようにわれわれの意識の下に環境として滑り込んでしまっている、 ということができます。
この境界がわからなくなっている、 こうなってしまっている状況をテクノロジーの環境化というキーワードで記述しておきたいと思います。 テクノロジーはあらゆるところに浸透し、 すべてはテクノロジーを介して認識され、 テクノロジーによって物事は進んでいる。 特にコンピュータやコンピュータネットワークが作り出すテクノロジー環境は、 もう後戻りできないほど複雑で、 多様に人間を取り巻いてしまっています。 私たちの意識や感覚は、 既に常に数万の微細な技術を介して世界を感知し、 把握するような仕組みに組み込まれています。 このように一つ一つのテクノロジーを選り分けて捉えることすら不可能に近い、 変わりつつあるテクノロジー環境の中で、 変わりつつある人間がどのように物事を捉えていくのか。 そのしくみを顕在化させて把握し直すということがなによりもデザインの前提として必要になってきます。 これが現代建築や都市計画の重要な課題の一つと思われます。 ですから、 問題提起はテクノロジーの環境化と、 それに対する人間の感覚や認識のしくみの再定義ということになります。
三年ほど前に京都で展覧会をしました。 私がこの「人間に考えさせる機械」という挑発的な言葉を使って試みたことは、 今まで申し上げてきましたような現在の状況、 すなわち「環境化するテクノロジー」という人間を取り巻く現在の状況を意識の上に昇らせる、 浮かびあがらせる、 そういう試みであったわけです。
人間に考えさせる機械という言葉の言い回しは、 もちろん、 人工知能テクノロジーのキーワードであった、 人間のように考える機械、 という言葉の組み変えです。 つまり人間のように考え、 人間に代わって思考する機械を作り出そうとする現代のテクノロジーのあり方に対して、 人間に考えさせることをこれからのテクノロジーのあり方として位置づけようといたしたものです。
伊藤豊雄は、 建築家の中で一番最初にコンピュータをプレゼンテーションに使った建築家です。 これはいわゆる通常のCGといわれているデータが入力されていて、 初期の非常にローテックなCGで描かれたものです。
ちょっと暗くて見づらいですけれども、 写真3はこのCGから操作をしていていろいろなプログラム上のエラー、 コマンドのエラーがおきてCGが破壊されていった様子です)。
これ一冊丸ごと本になっているのですが、 これはもう元がいったいなんだかわからないくらい形が破壊されていてとんでもない形が不思議なところに現れたり、 いってみればそのプログラムのバグあるいはエラーの中から非常に意外な形が出てくる、 ということを体験し始めた最初のころのものです。
写真4はすかすかの荒れ地、 枯れ草が生えているような感じになっていますけれども、 これもプログラム上のエラーを意図的にひきおこした状態です。
非常にプリミティブなヴォールトやピラミッド、 シリンダーとかそういうものを、 ある大きさである変形を加えてある場所である角度で置きなさい、 ということを数値で入力するという非常に使いづらいプログラムを最初に開発していたわけです。 それをやっていて気づいたことは、 この数値入力というのが大変人間の自然な感覚とはかけ離れていて、 とんでもない形がときどきできるわけです。 この使いづらさというのは実は非常に面白いものでもあるわけです。
これを良いとするか悪いとするか、 そういう問題ではなくて、 人間がマウスを使って出来るような形ではないものができてしまったということです。
そのような経験から、 例えばこれは二次元の平面で、 ランダムノイズという数列を使って形態を作っていくといったことも始めました。
乱数というのはまったく相関性がないのが特徴です。 一方、 人間の作るものというのは必ず相関性があるわけです。 ある形の次にはこのあたりに形がこなければいけないと思ってマウスで持ってくるわけですが、 一方、 数値入力というのは乱数と同じで相関性が欠如していますから、 バラバラの形が出てくるわけです。 ただそのバラバラの形というのは誰も建築とは認識しないわけで、 そこに問題がおきてきます。
写真5はアクソノメトリックです。
写真6もそうですが、 これを建築だと申し上げるつもりは全くありませんけれども、 さっき申し上げましたように乱数に対して、 完全に拡散した相関性のない状態に対して、 ある相関性をフィルターあるいはパラメータで与えていく。 そういうプログラムにしていくと、 例えば非常に大きな平面に対して、 他の立方体を変形させた物がどういう関係になっていくかという、 物と物との関係が建築家に許される範囲に近づいていく、 そういうものです。
ここで初めて「人間に考えさせる機械」という言葉を使いました。
この建築美術館は非常に面白い、 これはちょうど開会式の時ですけれど、 建築家が図面を見る時は椅子に座って水平に置かれた図面を電灯の下で見るというのが普通の姿勢ですから、 身体にそういうインターフェスを与える、 そういう仕掛けが全部なされていて、 隣はピータ・クックですけれども、 ここが私の図面ですけれども、 その椅子に座ってそいうい身体のインターフェスを通して図面に入っていく、 そういう仕掛けができていて会場設定自体、 大変面白いものでした。
どういうことをやったかといいますと、 パリですからパリを挑発することも非常に重要なので、 コルビュジェのサヴォア邸で仕掛けてみました。 サヴォア邸の、 赤い部分がスロープであったり、 スロープ、 螺旋階段が、 変なところに引っかかっていたりする。 これは螺旋階段のステップです。 そういうものがコンピュータに登録されて、 それをコンピュータが乱数で展開する。 それに対して建築的なフィルターをかけてこれを一晩中動かしておくと百とか千とかできてくるわけで、 その中で、 重力加速度の中で成立するような形を建築家は選択していくということになります。
そうすると、 やはりこれはあの先程のただのキューブが変形されて関係づけられているものとは違って、 導線や機能のあるものですから、 意味を引きずっているわけで、 これまでとは違ういろいろな不思議な形、 不思議な意味を作り出します(写真7)。
人間で、 手でやったら決してこんなふうなところにこんなものは置けないのに、 こんな形ができてしまったというものが自動生成されてくるわけです(写真8)。
実はコンピュータの中で先に形が自動生成されていますから、 こちらはその中から選ぶだけであって模型は後からできるわけです。 つまりリアリティはコンピュータの中にあってそれから後に現実の世界に模型として引き出されたということになります。
ある時は形態ではなくて言葉を自動生成させる、 何々するための都市、 あるいは何々都市という言葉をちょうどコンピュータの辞書から自動的に組み合わせて計画のコンセプトを何千と作り出す。 その中から選んでいくという、 形ではなくて言葉を作り出すというプログラムを作りました。 これは3%都市というのですが、 話すと長くなるので次にいきます。
左のところに見える白い建物が、 このギャラリーの形態の生成です。 中に空間を持って板に囲まれている。 それをオートマチックに作るということをやりました(写真9、 10)。
ある程度組織的に今まで考えてきたり作ってきたりしてきたものをまとめた「人間に考えさせる機械展」の模様です。 ここには二つの部屋があって、 一つは大きな部屋ですけれども、 もうひとつの部屋の四つのコンピュータの中で作られた形態がここでアニメーションとして映し出されています。 それでこちら側には四つの模型があって同じ大きさ、 つまりこの中で生成されたものを同じ大きさで外に出すということをやっているわけです。
それぞれのプログラムにはエイダ、 ケプラー、 ル・コルビジュエ、 ヴィトゲンシュタインという名前がつけられています。
実はこれをタペストリーにしてしまったんです。 巨大なタペストリー、 織物というものはコンピュータのデータ構造と全く一緒なので、 それを全く大きなカーペットとタペストリーに仕上げてしまったというものです(写真13)。
ディテールはドットでできているわけです(写真14)。
これは模型のほうが苦労したんですけれど、 後でできた。 つまりこれはどういうプロジェクトであったかというと、 こういう16分割したリングを、 コンピュータの中で、 スーパー3Dというとてもレトロな3Dフトウエアにデータを供給する、 そういうプログラムを書くわけです。 16分割した精度の悪いリングが、 自動的に自分で回転軸と速度を決めて回転し始める。 そうすると精度が悪いものですから、 それがお互いに交錯するあたりでプログラムのエラーが起きるわけです。 そのエラーでできた形、 パターンが非常に美しいわけで、 それを今度は実際にそういうエラーで作られたものを模型の上で再現する。 ですから非常に難しいわけです。
この真ん中のこの部分が非常に有名なホールです。
そのホールをCGにしました。 昔、 分析する必要があったので、 それをCGでおこしたものです。 ドアノブとかそういう関係が非常に面白いわけです。
これは実は壊れているのではありません。 コンピュータのデータはX、 Y、 Zの三次元のデータの羅列としてあるわけですが、 例えばカンマ一個取ってしまうとXの次にYがこないでYZ、 その次はまたX、 Y、 Zというふうにデータがずれてしまいます。 そういうふうにして次元をずらしていく、 自動的に今度は意図的にエラーを発生させるプログラムルーチンを書いたわけです(写真17)。
ですから階段があらぬ方向にいってしまったりとかそういうことが起こってくるわけです(写真18)。
これは、 私たちはふだん点と点を結ぶワイヤーフレームというのをモニターの中で見ているのですが、 そうではなく、 人間よりも大きくしてしまうということ、 中に入ることのできる大きさにするということを目的としているわけです。
写真19は非常にローテックな、 企業秘密ですけれども輪ゴムで止める、 そういうディテールです。
というのは、 差し替えを用意したかったのでこれを一色にしたところで、 赤だけの一色にしたところでこれが一番良い状態だと思います。 そのためのディテールです。
これはエイダというプロジェクトです。 なぜこういうことをやっているかと申し上げますと、 相関性のない状態に対して相関性を与えていく、 切ったり貼ったりそういう行為を繰り返していくうちにどうすればどっから先は建築でなくなるのか、 あるいはどちら側が建築なのかという、 つまりわれわれが建築と思っているスレッシュホードが見えてくる。 あるいはその概念の枠組みを広げる。 そういう目的でやっています。 つまりそういうわざわざ使いにくいものを使って、 その人間の可能性を広げる。 決して心地良いものではないけれども、 20年先にはひょっとしたらこれがノーマルになっているかもしれない。 それはどうかわかりませんけれども、 可能性を広げるということが一つの目的ですし、 それからもう一つはコンピュータの中で先にできてしまったものを外にだすということが目的になっているわけです。
これはスーパー3Dというソフトウエアを使っています。 今のハイテックなインディゴでやっているようなレンダリングではなくて、 パターンシェーディングと呼ばれる水玉模様や、 ストライプによって明るさを作り出して明るいところから暗いところまでの階調を作り出し、 それによってシェーディングする方法です。 非常にすばやいシェーディングですが、 そのパターンがちょっと動くだけで明るさが変わるわけですから、 パターンがどんどん変わっていってそれが非常に面白い効果を作り出しますし、 またそのパターンがエラーを作り出していくわけです。
次に見ていただくのはケプラーのモデルで、 その不整形な十六面体が重なっていく、 その重なりのところにいろいろなエラーができていくところです。 人間がやると絶対に出ないエラーが、 コンピュータの中でできてしまう。 それを外に出すということです。
次に出てくるのは、 ヴィトゲンシュタインのプロジェクトです。 次元がずれていく、 それを一つ一つのコマでその一個一個の点のデータも移動していくのを、 コマどりにしているアニメーションです。
以上、 リアリティのある話ができたかどうかわかりませんけれども私の問題提起はこれで終わらせていただきます。 ありがとうございました。
問題提起3
建築CGの分野から
神戸芸術工科大学 小山明
講演で使用されたスライドの多くを割愛しましたので、 対応する部分は一部要約しています。
はじめに
予言された現実と虚構の反転
私たちは今、 目に見えている形態が決してその内容や機能をストレートに表現することのない虚構に満ち溢れた都市に住んでいます。
ナチスの要塞にみる形態と機能の矛盾
1940年代のナチス・ドイツのウィーン要塞は不思議な建物です(写真1)。
湾岸戦争で明らかになった虚構と現実の境界の喪失
次に、 1990年という年に注目します。
人間に考えさせる機械
中野本町の家
まずお見せするのは建築家の伊藤豊雄の中野本町の家という自邸です。
乱数が作る形
また、 別の動機をご説明しますけれども、 昔は建築のプログラムはなかったわけで、 自分達で開発しないといけなかったのです。
パリでの試み−人間に考えさせる機械
これはパリの建築美術館です。
金沢の城址公園の再開発プロジェクト
これは金沢の城址公園の再開発プロジェクトです。
京都での「人間に考えさせる機械展」
これは1994年に京都で行ったものです。
エイダ
写真11、 12は一番最初のエイダですけれども、 これは水平に大きな板と他の部材がどういう関係にあるかというスタディをやっていたものを、 はるかに部材の数を多くしてアニメーションとして作ったものをある瞬間で止めた状態です。
ケプラー
写真15、 16は先程のケプラーというプロジェクトです。
ヴィトゲンシュタイン
次はヴィトゲンシュタインの作ったストンボロー邸の平面図です。
もう一つの試み−インスタレーション
これはもう一つの部屋に作ったインスタレーションです。
ビデオについて
音は入れていません。
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