お話の前提として、 まず、 「仮想世界」を二通りに分けて考えたいと思います。 つまり、 「実空間(フィジカルな空間)」における仮想世界と、 「仮想空間」(ノン・フィジカルな空間)における仮想世界にきっちり分けて考えてお話をしたいと思います。
それが私の話の前提です。 ちょっと宣伝になるのですが、 私の「略歴」の「主な著書」のところに、 『都市・公共土木のCGプレゼンテーション−デザイン・コミニュケーションと合意形成のメディア』という本がございます。 あと一週間ほどで発行されるのですが、 その本で述べているCGプレゼンテーションのなかでは、 仮想空間世界として、 デザイン対象の世界を構築するわけですが、 そのリアリティあるいはバーチャリティに関して、 私は興味をもっているのです。
一つは、 実空間仮想世界の中のリアリティなりバーチャリティがどうあって、 それが仮想空間世界とどう関わるか、 という話。 そしてもう一つは、 仮想空間世界そのものの誘惑というお話です。
一つは「描写のリアリティ」、 つまりつくる側のリアリティ。 二つめは「体験のリアリティ」、 つまり、 仮想空間世界を生きる側のリアリティ。 じつはこの「描写のリアリティ」と「体験のリアリティ」は実世界ではかなり一致するようですが、 仮想空間世界の場合はどうもそうではなさそうなのです。 それから三つめは「背景世界のリアリティ」です。 これは描写されている現象の背後にあって、 「像」の世界を支えている「背景」のリアリティです。 これらを、 以下に「仮想空間世界」を考えるためのキーとして挙げてみました。
私の専門は土木デザインですが、 土木はいっぱい悪いことをやっています。 写真1や写真2のような高圧鉄塔とか切り土です。 こういう壮大な切り土、 これはダムの原石山の切り土ですからどうしてもこんな風に大きくなるのですが、 こういう何のデザイン的配慮もないようなものを平気で作ってしまう。 もうリアリティそのものという感じです。
それを仮想世界に引き移して考えるとどうなるか。 写真3は、 先ほど申し上げた本の表紙にCGで描いた私の大学のイメージです。 見ていただくとお解りのように、 リアルといえばリアルなのですが、 どこか空虚な感じがします。 これはやはりネガティブ・エレメントを描いてないとか、 その他諸々に起因するのではないか、 と感じます。
写真4もあまりいい画像ではなくて申し訳ないのですが、 石積み風模様の形枠でつくったコンクリート擁壁です。 自然風の模様なのに、 自然の中にはありそうもなく延々と同じ模様が続く。 こんなバーチャルなことはない。 本物の石を積んだ擁壁でも同じようなことがあります。 はじめは普通の石積みかと思っても、 じっと見ていると、 だんだん変な感じがしてくる。 それは、 石がバラバラにただ積み上げてあるだけだからです。 ちゃんと積んだ石というのは重力に抗してきっちり作るわけですから、 それなりの秩序感がありますが、 それが感じられない。 コンクリートにただ石を張っただけということがわかってきます。 こういうのを似非材料というか似非素材というか。 広く捉えると、 材料そのものというよりは、 デザインエレメント、 あるいはデザインボキャブラリーの問題なのですが。
たとえば写真5の宇治川河畔のつくり方は、 ディズニーランドの池にあるようなものとまさしく一緒で、 これのどこが自然河川なんだと思えるようなところがあるわけです。
ここからいくつかのことが考えられます。
とくに、 「自然」については、 非自然的デザイン・エレメントを使うことで「描写のリアリティ」が失われ、 それによって「体験のリアリティ」が無くなってしまう。 ところが仮想空間世界では、 それを構成する材料は「モデル」で、 これは「似非材料」に等しいわけですから、 「描写のリアリティ」を達成するのは非常に難しい。 いわゆるバーチャル・リアリティも言うは易いけれども、 「覚醒夢マシン」、 すなわち起きたまま夢を見るようなことができるような機械ができれば、 これは非常にリアリティがあることになるのでしょうが、 それ以外に仮想空間世界で本当に「描写のリアリティ」を達成するのはちょっと考えられないという気がします。 だから仮想空間世界でも「描写のリアリティ」と「体験のリアリティ」が単純に一致・比例するんだということであると、 ちょっとまずい。
ところが一方で、 仮想世界での「体験のリアリティ」は、 「見立て」とか「想像力」によって補われるのではないか。 あるいは背景世界がそういう想像力の必要性や根拠を与えるというようなことがあるだろう。 このことは実空間世界でも言えることで、 たとえば「復元」の場合に、 それが学問的に正しいというような背景世界の認識とともにリアリティにつながる想像力が働く。 同じように、 仮想空間世界で、 たとえばCGによるビジュアル・シミュレーションを行うというようなとき、 未だ実現していないものを事前に見る必要性とか、 シミュレーションが厳密になされており、 事物的な次元で正当性が保証されているといったことが前提としてあれば、 見かけ上は大したものでもないけれど、 体験上はリアリティのあるものが作れるというようなことがある。 問題は、 CGプレゼンテーションという話からいえば、 そういう想像力を訓練されていない人を相手にしたときに一体どうしたらいいのか、 とか、 そういう問題が多々生じることです。
建築物だけを見ますとまさしくリアリティそのものですが、 軸性が非常に強いこの建物に対して、 それを支える都市の側に都市軸が全くないのです。 それどころか、 正面には同時に建てられたホテルが立ちはだかっているように一見見えます。 私にはこんなバーチャルなことはない、 という感じがします。
一方、 梅田スカイビル以前に作られたグランダルシェは、 当然、 シャンゼリゼから続く都市軸上にあるわけです(写真7a〉。 あるいはエッフェル塔にしても、 都市軸上にあって、 そこにきっちり穴を開けている。 穴を開けているというと変ですけれども、 日本のテレビ塔のように、 ど真ん中からエレベーターを上げるなんてことはしないわけです。 このようにパリでは、 都市と、 建築なり構造物のリアリティをきっちり一致させた世界がつくられているにもかかわらず、 日本の方ではどうもそうではない(写真7b〉。
そこからもいくつかのことが考えられます。
まず、 「描写の世界」の中でもやはり主要な対象物と背景世界的なものがあって、 その間の相克がある、 ということ。
それから、 背景と対象物が一致というか和合する状態、 英語でいうコンコーダンス(concordance)が成立するような、 そういうものを作らせないような背景世界というのが現実の中にあるということ。 結局日本の文化的状況はそんなものなんだ、 とも言えるわけです。
その危うさとは 往々にして、 CGによってそういうことをやるということがどうもありそうで、 そういう危うさがあるんではないかということです。 それとも、 何者にも束縛されない自由で純粋な環境デザインが可能になり、 芸術的価値を有することになるということか?
「遊び」には非常に有利な点があるわけです、 時空を超越するとか、 重力から自由とか、 安いとか。
あるいは「遊び」というのは、 「虚構」の上に成り立つリアリティを追求する世界、 本質的に仮想世界である。
それを分かつのは「身体性」しかないわけです。 そうなるとわれわれは一体どうなるんだろう、 という話が実は今日の問題提起の中にもいくつかあったことだとおもいます。
‘Mirror Worlds’(D. Gelernter, Oxford University Press, 1991)という本がありますが、 『インフォスケープ』(有澤・熊坂・金安著、 ジャストシステム、 1994)という本の中で紹介してあったものです。 「ミラー・ワールド」という形で現実世界をコンピュータの中につくる。
ii. フィラデルフィア2000年プロジェクト
iii. 都市を知り、 つくる手段としての仮想空間世界 フィラデルフィアの市庁舎がここにあります(写真8)。 元都市計画局長のエドモンド・ベーコンが生きていた頃は、 このウィリアム・ペンの銅像より高い建物は建てない、 と言ってたのが、 もういつの間にか破られてしまっている、 といった状況が如実にわかるわけです。
そういう、 都市を知り、 あるいは都市をつくる「手段」としての仮想空間世界ということをきっちりまじめに考えることは、 やってみたいところです。 なんとか日本でもこういうことができないかと思います。
パネル報告1
実空間仮想世界と仮想空間世界、 そしてその誘惑
大阪産業大学工学部環境デザイン学科 榊原和彦
実空間(フィジカルな空間)における仮想世界
ii. 仮想空間世界
仮想空間(ノン・フィジカルな空間)における仮想世界
それから、 私の興味はCGプレゼンテーションというところにあります。
・被デザイン対象の「像」の共有によりデザイン・コミュニケーションを可能にするためのメディア
ii. 問題提起のポイント
・仮想空間世界として構築された被デザイン対象の像のリアリティまたはバーチャリティ
・実空間仮想世界の様態からの類比的考察に基づく、 仮想空間世界の様相、 あり方
・仮想空間世界の誘惑
今日は大きく分けて二つの話をします。
「仮想空間世界」を
「実空間仮想世界」から見る
・仮想空間世界をつくる側のリアリティ
ii. 体験(知覚)のリアリティ
・仮想空間世界を生きる人間の側のリアリティ
iii. 背景世界のリアリティ
・描写されている現象の背後にあって「像」の世界を支えている「背景」のリアリティ
ここでは、 実空間仮想世界のいくつかの現象を見て、 その類比的考察によって、 仮想空間世界のことを考えてみることにします。
1.「ネガティブ・エレメント」のリアリティ
往々にして、 実空間世界ではネガティブなエレメントほどリアリティがあるように思えます。
2.「似非材料」のバーチャリティ
今度は反対に、 「似非材料のバーチャリティ」ということがあります。
i. 描写のリアリティと体験のリアリティの一致または乖離
・実空間世界での描写のリアリティと体験のバーチャリティの一致
ii. 仮想空間世界における、 体験のリアリティ
・仮想空間世界で、 完全な描写のリアリティを達成できるのは覚醒夢マシンができたとき
・見立て、 想像力
iii. 実空間世界におけるバーチャルな描写のリアリティと体験のリアリティの一致
・背景世界が体験のリアリティ(の必要性)を与える
ひとつは、 先ほど申し上げたように、 実空間世界では「描写のリアリティ」と「体験のリアリティ」はかなり一致・比例するんじゃないか。
3.「所を得ない」ことのバーチャリティ
写真6は梅田スカイビルです。
仮想空間世界の誘惑
1.「仮想空間世界」の自己目的化
環境デザインにとって、 CG自体を環境デザインの対象というか、 実現の場とすることの危うさというのがあるんじゃないか。
・CGの、 高度の具象性と造形操作の自由度の高さ
といったことです。
・CGの、 『場所性』からの遊離、 『重力』からの自由
・上記の自由に基づく放恣なデザインによる環境デザインの退嬰化
2.「仮想現実」の誘惑
「仮想現実」、 これも今日の話題の中でいくつか出ていることだと思いますが、 要するに「遊び」の誘惑ということです。
・描写世界の構成要素の間のリアリティの相克
ii. 背景と対象の幸せな一致を保証しない背景世界
ii. その危うさ
・CGの、 高度の具象性と造形操作の自由度
iii. それとも?
・CGの、 場所性からの遊離、 重力からの自由
・環境デザインの退嬰化
・何者からも束縛されない自由で純粋な環境デザインを可能に?
・時空の超越、 重力からの自由、 安い
ii. 身体性
・遊び(ゲーム、 スポーツ、 賭…)は、 虚構(約束事、 ルール)の上にこそ成り立つリアリティを追求する世界
3.「ミラー・ワールド」の誘惑
「ミラー・ワールド」という言葉があります。
i. ミラーワールド
・都市、 病院など、 現実世界の正確な把握
・動き回り、 コミュニケーションを行う場所
・現実世界の全体像(topsight)を見る
・背景世界のリアリティがバーチャルな世界のリアリティを支える
それに近い世界をフィラデルフィアでは現実にやっている、 ということが『日経CG』に載っていました。
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