私ども絵画や彫刻という作品を造っているものは、 実は仮想世界で遊んで、 その副産物として作品を制作しているのではないかと思います。 私自身はパブリック・アートといって、 町中の再開発地域や新興住宅地などに彫刻を作ったりしています。
考えてみますと、 アルタミラの洞窟壁画にしても、 もちろん絵を描きたいという古代人の気持ちもあったわけですが、 狩猟社会の中で殺した動物への鎮魂、 沢山獲れる様にと願ったり、 または自分たちの狩りでの活躍の記録であるなど、 様々な意味があったわけです。 そのような美術がやがて建築の中に入っていきまして、 柱や天井画・壁画という形で浸透していったのです。 ところがいつの頃からか、 音楽もそうですが、 美術が一つの文化として確立された頃から、 美術は美術館、 音楽はホールといったように規定され、 悪く言えばそこに閉じこめられてしまったというところがあります。
仮想空間ということを考えてみますと、 白いキャンバスは一つの仮想空間を描くための器でありメディアであると思うのです。 その中にいくら写実的に立体感を持って描いたり、 陰影がつけられていても、 それは平面に描かれたものでしかない。 マグリットという画家の有名な作品に、 真ん中に大きなパイプが描いてあり、 その上だったか下だったかに「これはパイプではない」という意味の字が書いてある絵があります。 単色の背景の中にリアルに描かれたパイプに「これはパイプではない」という言葉をつけることで、 これは本物のパイプではなくてキャンバスに油絵具で描かれた絵なのだというメッセージを見ている人に発信しているのです。
その作品にも額縁がついています。 キャンバスが仮想世界を描く空間であれば、 額縁は現実世界との境界となる一つの装置としての役割を果たしていると思われます。 ですから彫刻も、 台座に高く掲げられることによって、 現実世界と切り離される。 台座もまた額縁と同じ役割を持っています。
絵画が最初どのようなものであったか。 今更言うまでもないことですが、 まず対象物があり、 その対象物を目で見て写し取るというものでした。 そこでの優れた作品というのは、 対象物に酷似しているとされているわけです。 先程榊原先生がおっしゃいました「描写のリアリティ」は、 対象描写のリアリティとして絵画の世界では一つの基準となっていたのです。
ところが1839年に写真機が発明されました。 最初の写真家の多くは実は画家だったのです。 ほとんどの画家はそれを職業とし、 肖像画や風景画を依頼されて制作する、 いわば現在の写真家と同じスタンスで仕事をしていたわけです。 それが写真機によってとって替わられ、 筆を折るといいますか、 写真に転向した画家も少なくなかったのです。 おかしなことに、 当時優れた写真といわれたのは、 絵画と同じ構成を持った、 絵画の雰囲気を持つ写真でした。
その写真に動きと時間が加わって映画が誕生するのですが、 映画の最初は汽車が走っているものであるとか、 やはり現実の再現の描写というものが最初にあるわけです。 コンピューター・グラフィックスもそうではなかったでしょうか。
ともあれ写真機などの新しいメディアの開発によって絵画とは何かということが逆に問われるようになったのです。 印象派など、 自然の中では対面できないような場面を描いたり、 形をどんどんディフォルメしていき動きを取り入れた立体派=キュビズムであるとか、 目に見えるものを描くのではなくて見えないものを描くというように変わってきているのです。
美術館自体も大きく考えてみますと、 キャンバスにおける額縁の役割を担っているのではないでしょうか。 こうした施設自体が現実の空間と虚構とを区切るフレームの役割をしているように感じられるのです。 その中にさらに額縁に入った絵があるのです。
最近では展示室全体、 床・天井にまで展開する作品や、 光や音など様々な要素を取り込むインスタレーションといわれる展開もあります。 それもちゃんと美術館という文化施設のフレームの中に収まっていて、 町中であればがらくたであるようなものが、 その中では作品として成立するという仕掛けの中で存在しているのです。 その意味で、 美術に限定すれば、 美術館は一つの仮想空間ではないかと思うのです。
私自身は新作では9年ぶりになる展覧会を秋に開くのですが、 それ以外には町中にあるパブリック・アートを制作しています。 そこで町を見渡してみますと、 電信柱があったり、 看板があったり、 ごみ箱があったり、 音でいえば騒音のようなものがいっぱいあるわけです。 美術館などでは作品以外のものは見えにくく照明を落としたりしているのですが、 現実空間では作品は特別なものではなく、 電信柱と等しく置かれるわけです。 これは一種のフレームレス、 ボーダーレスな空間です。 その中でアートとしてのメッセージを発信していかなければならない。 そういう点では美術館などで開く展覧会の方が楽だといえるかも知れません。 しかしそれ以上に現実の中でやっていく面白さがあるのです。
実はその作品が発信するメッセージや本来持っている意味がパブリック・アートにはあるのです。 しかし現実には、 有名な人の作品を、 ある日どんと町なかに持ってきてまわりから唐突に浮き上がっているものも見かけます。 これは芸術の分野ではプロップ・アートといいまして、 あまりよくない例として捉えられています。
今では町なかに彫刻がおかれるのが普通の光景になりました。 特に神戸市などは数でいえば日本一持っているのですが、 それでもたかが知れているのです。 建築物などの構造物の方が遥かに多くある。 その中でプロップ・アート的なものが、 最近目に付くようになっています。
最近出来ました住宅地に行きますと、 様々なタイプの家が建っています。 全体に洋風の家ばかりが建っている町ならともかく、 旧来の町並みの中に突然チューダー様式などの注文住宅が建っている、 そういう光景を目にすることがあります。 皆さん読まれたかと思いますが、 中川理さんの『偽装するニッポン』という本があり、 その中で公衆トイレが河童や鬼の形をしていたり、 公衆電話のボックスの上にオブジェが載っていたりする例が紹介されています。 いわば遊園地的な感覚が無遠慮に現実のふつうの世界に飛び込んできているわけで、 こうした現象に頭にきているのは私だけではないと思います(写真1、 写真2)。
問題なのはこのようなテーマパーク的感覚が節操なしに町に入り込んでくることです。 テーマパークにつきましては貴多野さんが既に色々お話下さいましたが、 一定の仕切られた空間、 ここはこういうエリアであるという約束事のなかで作られるのならいいのですが、 境界無しに日常になだれ込んでいるのが問題ではないかと思います。
対立構造ではなくて、 仮想世界の面白さをうまく現実にとけ込ませた環境が一番大切なのではないでしょうか? というのは「全部俺の作品だ」と自己主張ばかりの作品を町なかに置きますと、 見る人はしんどい。 その創造世界に参加する余地がないのです。 そのようなものではなく、 作家が自分の内部の仮想世界を表現する場合でも、 公共空間に置いた場合に市民がそれを見て共有できる何かを感じ、 現実空間の中にとけ込まそうとする余地を残さなければならないのではないかと考え、 作品を制作しています。
最後に、 最近美術の展覧会の新しい動きを紹介します。 若い人たちが行うことが多いのですが、 美術館の枠を超えて小学校の廃校や取り壊し前の倉庫、 病院、 刑務所などをリニューアルして美術館にしたとか、 ユニークな場所での展覧会が出てきました。 それぞれの場の持つ背景の感覚を壊さないようにうまく活かして現代アートのスペースにするわけです。 さらに石川の鶴来や大阪の平野の町なかで、 作品があまり自己主張しないで、 さりげなく気づかせるような形でアートが置かれる。 そんな町なかを利用したアートプロジェクトが盛んになってきました。 それにはやはり、 表現する側がリアリティが薄くなっている世界の中で、 リアリティの強い場や空間で自分たちの作品を展示してみたいという気持ちがあるのではないかと思っています。
今回、 許せる・許せないという話も出てくると思うのですが、 この基準は難しいと思います。 現実からかなり逸脱していても、 祭のような一定の時間と空間の中でならいいと思いますし、 特殊なエリア、 例えば道頓堀のネオンのシチュエーションならいくら派手でも構わないというような、 場所や空間・時間の違いによって、 許せる・許せないの許容の基準が違ってくるからです。 この基準については、 皆さんのご意見を伺いながら議論していくということで、 私の報告を終わらせていただきます。
パネル報告3
ゆめ・うつつの都市デザイン
成安造形大学・造形作家 今井祝雄
絵画や彫刻はもともと仮想空間のもの
今回、 バーチャル・リアリティというテーマでパネラーのご相談を受けましたとき、 私自身はこれまで横文字のバーチャルリアリティというものに、 それほど関心がなかったのですが、 今回改めて仮想ということについて考えてみたというのが正直なところです。
仮想空間としての文化施設
私はこの秋に個展を開くのですが、 この様な展覧会が行われるのは主にギャラリーや美術館など専用の空間です。
プロップ・アート
よくパブリック・アートとは如何なるものかと聞けば、 パブリック・スペースにおいてある芸術作品というぐらいにしか認識されていません。
半現実としてのアートのあり方
仮想世界と現実世界という風に対立させるのではなく、 人間には夢のような世界に生きている時間と、 現実の中であわただしく生きている時間があって、 その両方の中でバランスをとっていると思うのです。
私は自分の作品を“半現実”のつもりで制作しています。
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