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基調講演

現代都市のリアリティ

大阪大学文学部哲学哲学史 伊東道生

 同語反復であるが、 誘惑の目的は誘惑すること自体にある。 最高の誘惑者とは誘惑することのみに徹し、 獲得する瞬間に身をかわし続ける。 さもなければ獲物を手にしたとたんにそれは現実のものとなり、 誘惑者は堕落してしまう。 何かを獲得することが目的であれば、 誘惑はそのための手段へと転落してしまうからである。 誘惑が続くためにはいつも、 現実を誘いつつ、 離れなければならないという関係と切断の両義性こそが「仮想世界の誘惑」である。 同じように、 現代都市のリアリティについて語るということは、 現代都市がリアリティを失いつつ、 仮想世界に誘われているということを前提としている。 誰もが都市のリアリティを問題にする必要を感じていなければ、 それについて発言することも要求されないであろう。

 それでは翻って、 近代都市やそれ以前の都市はリアリティを持っていたのだろうか。 これには肯定的にも否定的にも答えることができる。 まず肯定的に答えると、 問題は次のように考えられる。 本来、 リアリティをもっていた都市が現代になってそれを失った、 その過程はどのようなものか、 あるいは、 それを引き起こした要因は何か。 これに対しては、 「ポスト・モダニズム」の概念を引き合いに出せば、 一応の説明は得られる。 つまり、 もともと存在するものを規定するが、 往々にして潜在的なために次第に明らかにし実現すべき本質―ポスト・モダニズムとは、 こういう意味での本質を形而上学的意味づけとして拒否し、 表層そのものにしか目を向けない傾向―歴史哲学の拒否―を言うからである。 都市といえども例外ではなく、 場所性であるとか地霊(ゲニウス・ロキ)、 大きな物語といったしかたで語られる本質が拒否される。 存在のリアルさを保証し、 それを支えていた本質が拒否されたからには、 もはや古典的な意味での現実と仮想との区別がなくなったシミュラークルしか残らない、 そしてこれは先進国の文化的必然性というわけである。 ここからは、 この現状をそのまま肯定する新保守主義と、 失われた本質を求め、 その復活を目指す時代錯誤的なロマン主義的保守主義が結果する。

 では否定的に答えるとどういうことになるのか。 言葉のうえでは、 現代以前の都市もまたリアリティを持っていなかったことになる。 これはどういうことなのであろうか。 ここで問われるべきことは、 おそらく「リアリティ」という概念そのものなのであろう。 考えてみれば、 この文を読んでいるあなたは、 現にそこに存在し、 この都市のなかで生きているのに、 それがリアルではない、 というのはおかしな話である。 それこそシミュラークルだと開き直ってしまえば話は簡単だが。 そこで、 都市のリアリティを考えるうえで、 別の視点を模索してみたい。 都市であることの性格や特徴はさまざまに規定されるであろうが、 「交換」という観点を取り上げ、 ここから「都市のリアリティ」といわれるものの性格にせまりたいと思う。 そして、 この性格の一面でも垣間見ることができれば、 そこに依拠して、 現代都市におけるデザインのリアリティについてもなにがしかのヒントがえられかもしれない。 それは言い換えれば、 テクノロジーのために不可視となった機能と、 同じくテクノロジーのおかげで無数の可能性をもつようになった構造との間にある断絶に橋渡しをするデザインの必然性への一つの回答にもなるであろう。 というのも、 古典的論理にしたがえば、 現実性(リアリティ)とは可能性に必然性を与えることだから。

 
−−略歴−−
1956年愛知県生まれ。 大阪大学文学部、 大阪大学大学院文学研究科終了後、 (株)シティコード研究所を経て、 1991年より大阪大学文学部哲学哲学史助手。 主な著書。 『大阪の表現力』共編著、 PARCO出版、 1994年、 「マルチメディア社会と文化」(『都市問題研究 第47巻第2号』)都市問題研究会、 1995年、 『現代哲学の潮流』共著、 ミネルヴァ書房、 1996年、 『新工学知 第2巻技術知の本質』・『新工学知 第3巻技術知の射程』共著、 東京大学出版会、 1997年、 等。

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