そして、 実空間における仮想世界を“実空間仮想世界”、 仮想空間における仮想世界を“仮想空間世界”と言うことにする。 そうしておいて、 私の仮想空間に対する関心の在処、 問題意識について述べたい。
私の研究課題として“CGプレゼンテーション”がある。 これの目的の一つは、 被デザイン対象の“像”(視覚像だけではない。 当面、 マルチメディア表現像だろう)を共有して、 デザイン・コミュニケーションを可能にすることである。 未だないものを、 自らの手で制作するのではなく、 構想するのがデザインであるので、 デザイン対象の世界は“仮想空間世界”として仮想空間内に構築せざるを得ない。 そういう世界のリアリティに関わる問題・課題に関心が向くのである。
以下では、 “仮想空間世界”のリアリティ(またはバーチャリティ)について、 “実空間仮想世界”を眺めながら考えてみよう。
(1)“像”の世界の“描写のリアリティ”(つくる側のリアリティ)
(2)“像”の世界の“体験(知覚)のリアリティ”(仮想世界を生きる人間の側のリアリティ)
(3)描写されている現象の背景にあって“像”の世界を支えている“背景世界のリアリティ”
仮想空間世界では、 おうおうにして、 そういうものを描かない。 そのことが、 仮想世界の“描写のリアリティ”を大きく損なう。 そこまでの描写は、 細部に渡り過ぎるということなのだろうが、 これを回避していては、 奥深いリアリティから遠ざかるばかりだろう。
さて、 そこで“仮想空間世界”を振り返ってみると、 それを構築する材料は、 すべて“モデル”であり、 “似非材料”に外ならない。 これは、 “描写のリアリティ”にとっては、 都合の悪いことである。 しかし、 “描写のリアリティ”があってこそ“体験のリアリティ”が成立するのは事実であるが、 それしかないわけではない。
“描写のリアリティ”と“体験のリアリティ”とが完全なかたちで成立しているのが“仮想現実”であるとすれば、 それは、 「“覚醒夢”を見せる機械」ができてはじめて可能であると、 私は思う。 そうでない限り、 いわゆる“仮想現実”には、 たとえ高度の技術的展開を見せたとしても“玩具的矮小性”“偽物的軽薄性”がつきまとうだろう。
しかし、 不完全な“描写のリアリティ”を補うことは、 可能である。 “写し”であることを承知、 了解した上での“見立て”である。 要は、 “想像力”の問題であり、 必要があれば(必要性は“背景世界”が与えるだろう)、 想像力を働かせばよい。 現に、 デザイナーは、 スケッチやスタディ模型など不完全な仮想空間世界から実空間世界を想像している。 問題は、 想像力をもたない人々であり、 それが関係住民であったり市民であったりする場合に困ることが起きる。
ここで、 もう一度実空間世界に立ち返ってみる。 仮に、 見かけ上、 本物と全く変わらないような“似非材料”が出現したらどうなるか。 現にFRPなどで本物そっくりの岩などができており、 “擬石”は以前から使われている。 問題は、 “時間の経過”“エージング”であろうが、 それが克服されたらどうなるか。 悩ましいところである。
仮想空間世界のリアリティを支えるのは、 “想像力”であると前項(2)で述べたが、 それと同等かそれ以上に、 “背景世界”がリアリティを与えるのだろう。 たとえば、 CGプレゼンテーションの世界で、 ビジュアル・シミュレーションを行うとき、 “描写のリアリティ”に関わる“写実性”以前に、 “背景世界のリアリティ”の範疇に入る“正統性”が問題になる。 これは、 シミュレーションの正しさであり、 それが論証可能・弁護可能であることである。 この正統性の保証の下に初めて、 提示された“仮想空間世界”がバーチャリティから脱することができ、 頼ることができるのである。
そのような正統性は、 仮想空間世界そのものからは、 窺い知ることができない。 仮想空間世界を生みだし、 支えている仕組みや機構・機関などの“背景世界”そのものを見る外はないのである。
あるいは、 仮想空間世界は、 記号とその集まりであるテキストからできているに過ぎない。 それらが意味をもち、 何ものかの象徴となることができるのは、 “背景世界”の力であろう。
仮想空間世界でも同様のことが多々あろう。 “描写のリアリティ”のレベルでは、 たとえば、 建築パースなどでは、 背景や周辺を描かないことがよくあるが、 それでは、 浮遊しているものしか描けないのが道理である。 あるいは、 路面上の人、 水面に浮かぶ船や桟橋など、 足元に陰影がないとどうも落ち着かず、 浮いて見えてしまうことがある。 足元が固まらないのである。 些細であるが、 重要である。 反対に、 こうしたものを描かないことによって、 “シュール”な仮想世界を描写することができる。
より基本的には、 やはり、 “背景世界”との連関であり、 “背景世界のリアリティ”であろう。パネル報告
実空間仮想世界と仮想空間世界、 そしてその誘惑
大阪産業大学工学部環境デザイン学科 榊原和彦
1. “仮想世界”について
仮想世界が成立しているフィールドを、 a.実空間、 b.仮想空間、 に分けて考えた方がよいだろう。 実空間とは、 生身の人間がその中に物理的に実在し、 活動する空間である。 一方、 仮想空間とは、 実空間ではない空間、 人が技術や記号(テキスト)の力などを借りて構築する空間である。 人は、 仮想空間における事象を知覚を通じてのみ把握する。 生身の人間として、 そこで動き回ることはない(もし、 そうなれば、 それは実空間である)。2. “仮想空間世界”を“実空間仮想世界”から見る
“仮想空間世界”のリアリティは、 以下から成ると考えられる。
“実空間仮想世界”の成り立ちのも同様のものがあって、 両世界のリアリティには類比的関係が存し、 一方の成立・非成立は、 他方のそれの根拠となろう。 ここでは、 実空間仮想世界のいくつかの現象を見て、 そこから“仮想空間世界”のリアリティについて考え、 問題提起としたい。(1)“ネガティブ・エレメント”のリアリティ
皮肉なことに、 ネガティブな価値をもつ事物ほどリアリティが高いように思える。 人間にとっての“痛み”や“悲しみ”がそうであるし、 高圧鉄塔・電柱・電線などの“景観阻害要因”や“汚れ”などがそうである。 もっとも、 一方で、 人間というのは(あるいは日本人だけかも知れないが)そういうシビアなリアリティには耐えられないようで、 それらを回避する機構がどこかで働く。 在るものを無いと見立てることもある。 しかし、 そうであるにせよ、 ネガティブなものは生きる世界の“地”となって、 そのリアリティの基調を成すだろう。(2)“似非材料”のバーチャリティ
擬石積み模様コンクリート型枠や擬木を“似非材料”と言うことにする。 本物の石を張り付けた大型コンクリートブロックもこれに入るだろう。 さらには、 コンクリート擁壁の表面に石を並べただけの“擬石積み擁壁”(本当に積み上げた石積みには、 石の全体で重力に抗しているところから来ているであろう“秩序感”があるが、 この種の石積みの見かけには、 シッチャカメッチャカの感がある)もこの範疇に入れたい。 いずれにせよ、 似非材料による実世界の構築が、 そのリアリティを減じる。(3)保存・復元の世界のリアリティ
由緒・歴史がはっきりとした正統なものについては、 そのリアリティについては、 疑いがないと言ってよい。 たとえば伊勢神宮も、 建物が新しくつくられたものでること自体、 文化財としての価値に疑義を生ぜしめるものではないだろう。 しかし、 “想像”“推定”に基づく“復元”となると話は、 ややこしくなってくる。 下手をすれば、 テーマパークと変わらない。 しかし、 大きな違いは、 “背景世界”そのものにある。 歴史と歴史を秘めた場所が、 それに“意味”を付与する。 あるいは、 “象徴”たる資格を与える。(4)“所を得ない”ことのバーチャリティ
梅田スカイビルは、 私には、 地表上を浮遊し、 彷徨っていると見え、 建物がかわいそうという気がする。 あの形態の基本型は、 設計意図がどうであるにせよ、 グランダルシェと同じである。 極めて強い軸性を有する。 ところが、 グランダルシェとは違い、 その軸性に対応する都市側の軸空間はない。 それどころか、 すぐ脇に同時に建てられたホテルの建物が、 見る場所によっては、 あの四角く穿たれた空洞(それこそが軸性を表現している)に、 立ちはだかっているかのごとくに見える。 伸びをしようとする頭を押さえつけられたような、 進もうとするところの目の前を塞がれたような感じである。 リアリティに富む建築物が、 所を得ていないために、 バーチャルでしかあり得ていない例である。