それを変えたのが、 太閤検地に始まる近世の検地です。 検地は、 屋敷も把握しましたが、 その回りの田畑を把握することに主眼を置きました。 田畑を確定して検地帳をつくり、 その検地帳を元に年貢を納めさせたのです。 この頃、 その田畑を含めて、 ムラと意識されるようになったわけです。 しかし、 まだ、 その外の地域はムラではなかったのです。 検地帳には、 その外側のことは書かれていませんでした。
最終的に、 ムラが今の地方自治体のように一定の領域を基盤にしたものになっていくのは、 明治の地租改正によるものです。 地租改正は、 全ての宅地、 田畑に当たる耕地、 山林原野、 その他のもの全てを調査の対象にしました。 これは、 後には土地台帳というものになっていくわけです。 ここではじめて、 全ての土地が特定のムラになったわけです。
このように、 ムラという言葉が拡大し、 行政的な意味合いが強くなるにつれ、 その本来の意味は曖昧になってしまいました。 もともとは、 ムラはあくまで家々が集合している状態だけを指していました。 そこには屋敷があって、 人々が住んでおりますが、 それに加えて、 色々な施設、 設備、 装置を持って、 ムラは存在していたわけです。 そういった、 装置、 設備を持つということは、 ムラが単に、 家々、 屋敷の集合ではなく、 一つの独立した意志を持つ社会であったということを表わしています。
「ムラ」について
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