ムラは現代の用語でいえば集落です。 ノラは耕地で、 ヤマとかハラは山林原野です。 その意味づけは、 ムラは住まう場所、 居住の空間、 ノラは1年間のサイクルで耕して生産物を手に入れていく生産の場です。 ヤマは1年というサイクルを含みつつも、 もっと長いサイクルで色々なものを手に入れるところ、 草を刈ってくる、 木を伐ってくる、 あるいは色々な山の幸をとってくる、 そういう空間です。 そのようにして、 ムラ、 ノラ、 ヤマが、 居住空間、 生産空間、 採取空間という形であると言えます。
居住空間では完全に私的な分割の中にあって、 それぞれが暮らしています。 ですから、 屋敷の中に入ることは、 泥棒として早くから国家権力の手によって処断されてきました。 これは、 私的権利が確立しているがゆえに、 それが犯されたときには、 国家が、 そこに介在するわけです。 ところが、 ノラでは、 私的な分割の程度が弱いわけです。 田んぼや畑は確かに私的に、 それぞれが持っていますが、 ここで起こることには、 まさにノラという言葉が示すように、 共有、 共同という面、 誰のものでもないという面があります。
江戸時代から明治にかけて、 村法というムラの掟が作られています。 その中に、 色々な処罰、 処断といった規定、 いわゆるムラの制裁が書かれているわけですが、 それらは基本的にノラとヤマに関する規定です。 そこには、 屋敷に入った泥棒の規定はないのです。 それは、 直接、 江戸時代であればお役人様、 お代官様へということになるわけです。
村法には、 たとえば自分の飼っている鶏が、 他人の畑を荒した場合に、 その飼い主が処罰の対象となる、 例えば、 罰金になったり、 罰金以上の様々な処罰を受けるといったことが書かれています。 結局、 ノラに対するそういう侵入、 盗みに対しては、 すぐさま支配者の手にゆだねることはしなかったのです。 むしろ、 自分たちで処理する世界です。 ヤマに関しては、 これは、 完全に村の支配のものであって、 個人の支配はずっと後退していきます。
ムラの中は、 分割された私的な所有権が強大で、 それが外側にゆくにつれ順次弱まっていく。 そのことは、 いわば自然とか、 あるいは環境とか、 あるいは大地ということから考えますと、 大地を人間がどれくらい割き取って、 どれくらい自分のものにしているのかということの程度の差でもあるわけです。 ムラは自分たちの支配が十分に及ぶところです。 しかし、 ノラになり、 ヤマになると、 自然に対する人間側の支配は低くなっていく。 それだけ自然の力を認めているところです。 このように、 ムラとかノラとかヤマとかは、 我々が暮らしていく中での、 周りに対する我々の編成の仕方を示しているのではないかと考えております。
「ムラ」「ノラ」「ハラ」の構造
「ムラ」「ノラ」「ハラ」の構造
単純化して示せば、 図のようにムラを中心にして、 3つの同心円的な領域があるということです。 中心としてのムラ、 その外側のノラ、 その外側のヤマあるいはハラとです。
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