建築家は、 単に見栄えだけではなく、 いろんな意味の機能性、 利便性、 施工性、 さらに自然と人との関わり合いなどを考えながら、 設計し、 デザインしているのですね。 建築家は、 ディテールにこだわって、 形にこだわって、 そうして設計するというのではないのですか?
建築家であろうとなかろうと、 先ほども言ったように、 ローカルな掘っ立小屋がすばらしい建築であったりするのですから、 あれは建築家が作っているわけではなくて、 人間が大地とつきあって作った結果なんですね。 「大地には神が宿っている」と言いますが、 そういえば、 「ディテールには神が宿る」とも言うのです。 ディテールは、 単に表現としての形や機能的な便利さの為だけにあるのではないのです。 ディテールは、 本来「逃げ」みたいなもの、 あるいは、 例えば「車のハンドルの遊び」のようなもので、 施工上の収まりを調整するものです。 つまり、 異質のものとものがくっつくときに、 異質さ故の性質の違いとか、 あるいは、 人間が施工するわけですから、 必ずしも計画通りにはうまくいかない部分の納め方とか、 そういったもので、 文学的、 文化的とも言えるものなのです。
「いかに逃げるか」が、 ディテールの本来の役割なのです。 ディテールは、 「逃げの文化」なんです。 その逃げのディテールが宇宙を表現するとか、 そこに神が宿っているとか言う訳なんです。 このことは、 結果的に大地に対する考え方とも同じ事なのだと思えますね。
小さな茶室の狭さというのは、 人間の機能と応答しているところもあるけれど、 わざと不便にしている所もあるわけです。 なぜ茶室があれだけ落ち着ける空間なのかというと、 日常世界ではない空間を体験できる場で、 つまり、 日常以上に自然や神を感じれる場だということなんでしょう。 ある意味で、 大地を渡る風の音が知覚出来る、 モンゴルのゲルとも合い通じるところがあるのではないでしょうか。 いいかえると、 この場所は、 起伏を作るための装置だともいえましょう。
茶室でも、 人間の計画的な意志を少し崩す「いき・粋」のようなもの、 それが重要ですね。 この空間は、 常に一歩手前のところで止めておくところでできあがる物なのだと私は思っています。
横山:
一歩手前で止めておくことは、 とても難しいでしょう。 どうしても作りすぎますよね。
江川:
世の中、 「がんばれがんばれ」というのはどうもおもしろくない。 がんばりすぎる事は、 余り良くないのではないかと思ったりします。 それは、 建築のディテールにおいても言えることで、 非常に洗練されたもので、 非常に高度なものだとも言えますが、 逆に「逃げ」という要素を忘れてしまえば、 人間のものでなくなるような、 それだけが一人歩きするような気がします。 つまり、 いくら良い空間でも、 緊張感だけではダメだということなんですが・・・。 実際には、 なかなか口で言うほど簡単なことではなくて、 一生懸命になればなるほど、 難しいですね。
建築のディテールと大地
江川:
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