残り時間わずかとなりましたが、 ここでフロアから意見を求めたいと思います。
榊原先生がおっしゃった中で、 「行政」という言葉に僕はカチンときました。 「新しい公共」というお話もされましたが、 「新しい公共」とは何なのかをお三方にそれぞれコメントしていただきたいと思います。
榊原:
「新しい公共」とは何かについては、 いろんな側面から考えなきゃいけないんでしょうが、 その一つの側面からだけのことなんですが、 NPOイコール公共という風には簡単にはいかないだろうと思います。 公共というものが持ついくつかの面を考えると、 やはり公共には権力がというものがあると思うのです。 何かを作り上げていくには、 行政的な権力は必要だと思います。
NPOの存在を考えても、 NPOが権力を行使することは考えにくいんです。 権力を行使するものは市民全体を代表するものでなければならないと考えますが、 NPOが全体を代表する存在になりうるのかどうか。
後藤さんは「行政」という言葉にカチンときたとおっしゃいますが、 私は市民全体を代表して権力を行使する機関があって初めて実際に世の中が動くと思っています。 行政がなくなったら、 物事はうまく運ばないのじゃないでしょうか。 今日の報告の中でも行政と全く関わりのない住民参加の事例はないわけです。
だからある種の権力を行使するような存在としての公共は必要でしょう。 それは今のところ行政であるのですが、 NPOが将来それに代わりうるのかについては疑問に思います。
田端:
先ほど私が述べた話と絡みますが、 情報が公開されていくということは情報を持つ人がたくさん増えていくことです。 今までは行政や地域のボスという限られた中での情報の占有でしたが、 それがなくなる。 公開された情報を持つたくさんの人びとがまとまっていく過程では、 いろんなグループが出てくるだろうと思っています。 その集まりが公共であると見ていけばいいのではないでしょうか。 言い換えれば、 新しいグループが登場してくるということはまちづくりの方法が変わってくるということでしょう。
松久:
公共とは何か、 公共性は誰が担っていくのかというご質問だと思うのですが、 いわゆる「公共事業」のように上から与えられたものが公共であるという認識が次第に変わっていくと思います。 基本的には政治が主導し、 市民と企業と行政が協力して物事を担っていくという形になるでしょう。 そうすると市民が「公共とは何か」を判断する立場になるだろうと思っています。
ここで公共性について以前からよく言及されている丸茂先生のご意見をうかがってみようと思います。
丸茂弘幸〔関西大学〕:
どういう文脈で話せばいいのかとまどうのですが、 ひとつこういうことが言えるのではないでしょうか。
今年のJUDIのセミナーで、 三谷先生が「民有公共」というキーワードを出されました。 これは都市の中にいろんな「私」のものがあり、 それがけっこう公共的な豊かさになるという話でした。 例えば花を育てている個人の庭先は道を通る人にとっては喜びになるということがあります。 そういうものが積み重なって、 「民有」なんだけども「公共」的な意味を持つことを「民有公共」という言葉で表現されていました。
その一方、 行政が管理する「公共」があるわけですが、 その両方、 つまり個人の庭先の花にしても公園にある花にしても、 その与えている価値は変わらないのではないでしょうか。
「公」というものに対して我々一人一人は何の権利も与えられていません。 庭先の花は、 そこの家の人が楽しむために植えているわけで、 通る人のためではありません。 ただ、 そういうものをお互いに出し合いながら、 全体として豊かになっていくことができます。 都市の豊かさとは結局そういう部分に依存していると思うのです。
「民有公共」という言葉は素晴らしいと思います。 要するにそれ自体を目的としているわけじゃないんだけれど結果的には享受する人がいっぱいいる、 それが共有されている状態を大事にするべきじゃないか。 僕のメモには「反射的利益」と書いてあります。 これは法律用語で、 裁判などでは「主張する権利はない」と否定的に使われる言葉ですが、 むしろ積極的意味を与えたいと思っています。 我々はそんな種類の公共を育てていくべきだと考えているのです。
今までのご意見に対し、 後藤さん、 何かございますか。
後藤:
大体納得しました。 私はこれからの参加型まちづくりを考えていくのに、 新しい公共を考えていかねばならないと思っています。 公共は行政だけではないというのが今日のテーマですから、 いろいろと考えていかねばならないのですが、 まちづくり協議会が生きていく道は(住民が自分たちでやっていくということは)みんなのためになっているという結論に達しないといけないのです。 ですから、 行政がやっていることだけが公共だと思われたら片腹痛いと思うわけです。
行政の方も本当の公共性とは何かを真剣に考えて住民の方に近づいてもらわないと、 まちづくり協議会は続けられません。 行政と住民が合体してまちづくりを進めていくためには、 新しい公共とは何かを常に考えていかねばならないのでしょう。
僕は「住民」という言葉が嫌いですので、 市民という言葉を使いながら考えていこうと思っています。
田端先生が指摘された「住民参加の潮流は一過性の流行なのか」ということについてですが、 私は今は潮流に過ぎないと思っています。 それが奔流になっていけばいいと思います。 それは基本的には国民の意識が反映してのことでしょう。
それから、 先ほどから話題になっている「新しい公共」について、 私がいつも思っていることをちょっと述べます。 行政はいわゆる「公共」と呼ばれていて、 民間が「私」という言い方をされているのですが、 新しい公共というのは、 もっと中間領域やセミパブリックの領域、 すなわち〈際(きわ)〉を正当に位置づけていくべきだということじゃないでしょうか。 ですから行政が「公共」いう呼びかたから「共」をはずして、 「公」「共(協)」「私」という関係性がもっと発展していくことが求められていると考えています。
ではそろそろ締めくくりたいと思います。 午前中の問題提起を行っていただき、 また今回のフォーラム全体の委員長を務めた小林郁雄さんに、 今日の感想を述べていただきます。
小林:
みなさん長いこと、 お疲れさまでした。
今朝申し上げましたように、 都市の環境は多様で多重であり、 いろんな要素が複合し、 それが歴史的にも地域的にも連続している状況ですから、 その中で都市環境デザインを考えるのは群盲象をなでるという状況にならざるをえません。 ですから、 今回は3つのセクションに分かれてやってみようと提案いたしました。
しかし、 こうしていろんな議論がされたことを最後にまとめるというのは間違ったシステムではないかと感じています。 みんなでいろんな意見を出し多元的に話をしてきたわけですが、 こういうものにひとつの方向付けをする技術を私たちが持っているかというと、 全く持っていないのではないかと、 今真剣に考えています。 そこを何とかしない限り、 いろんな人の参加を得ても「新しい公共」へ結びつける力にならないんじゃないでしょうか。
何となく先生方に頼んでまとめてしまえばいいという安易な考えで、 最後のセッションを設けた私達のフォーラムのやり方に問題点があるのかと反省しています。
最後に公共のあり方についていくつか問題点が指摘されましたが、 結局まちづくりという言葉とあまり変わらないことになっていくんじゃないかと、 私はちょっと心配しています。 最近、 地域のまちづくりがいろんな面で話題になっていますが、 私はまちづくりについて、 ごく簡単な定義をしています。 地域の自立的継続的な環境改善運動と呼んでいます。 それに関わる多元的な人たちの意見をどういう形で整理できるか、 その整理の仕方については、 やはりもう少し討議したい。 5年後にはそれができればと思っています。
勝手なことばかり言って申し訳ございませんでしたが、 私の感想とさせていただきます。
司会:
ありがとうございました。 小林さんがおっしゃったように、 今日はいろんな所でいろんなディスカッションがありました。
難しいプログラムでしたが、 これで終わります。 みなさん長時間のご参加ありがとうございました。
「新しい公共」とは何か
後藤:
「民有公共」をキーワードとして考えた
司会:
行政も公共性は何かを考えてほしい
司会:
新しい公共はもっと中間領域に踏み込むべきでは
吉田薫〔まちづくりワークショップ〕:
多元的な人たちの意見をどうやって整理するか
司会:
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