近年の都市計画やまちづくりの中心課題は「参加」にあるのは間違いないと思います。 大震災からの復興において、 市民の自律的なまちづくり活動が注目されていますし、 それが復興の重要な部分を占めてきました。 また都市計画法の改正も、 都市計画決定権限を市町村に大幅に委譲する方向で動きだしています。 ですから、 参加型まちづくりがさまざまな計画や事業段階、 システムや手続き、 考え方の中で成熟してきつつあると思います。
それに反してこの都市環境デザイン会議や、 都市環境デザインにおいて、 どれくらい参加型の取り組みをしてきたかというと、 非常に怪しい。 人々の意見を聞いてワークショップをし、 公園のデザインをしたらそれで参加型なのか。 やっている方もやられる方も不安であり、 曖昧な中でデザインを決定していく参加型のあり方について、 躊躇があるのではないかと思います。 それは、 どういう形でデザインを決定していくべきかということでもあります。
その辺りは丸茂先生がお話されると思いますが、 私は個人的な芸術的表現や、 集団で行われる建築や映画のデザインの決定に関しては、 その受益者やそれを享受する人たち、 例えば映画を見る人とか建築を利用する人たちが関与するということはありえないと思っていますし、 それを問題にすることはないと考えます。
しかし、 都市環境は、 いろんな側面でいろんな人たちによって、 あるいは時間的、 歴史的な時間の経緯の中で作られていくものです。 社会を構成する人たち、 あるいは構成してきた人たちという歴史的背景を持った蓄積の総体として都市環境があるのです。 そのデザインは、 個人的な芸術とか共同的な芸術的表現の決定とは位相が違うのではないかと考えます。
そういう意味で、 参加型の都市環境デザインはむしろ重複した言葉ではないかと思うわけです。 なぜなら都市環境デザインは本来参加型でしかありえないからです。 ただ問題は、 その都市環境デザインを、 誰が決定するかということについて、 お互いに曖昧なまま来ているという点です。
参加型デザインそのもの、 特に都市環境デザインにおいて、 計画自体の決定や、 何をデザインするか、 誰が何に参加するかは自明であり、 あまり問題にならないと思います。 例えば公園をデザインするということになれば、 当然利用する人や周辺で常時管理する人、 設置する人といった関係者の総意の中でデザインは決められるべきであるし、 現に決まっていると思います。 ですから参加型デザインで一番問題なのは、 誰が何を決めるかということではなく、 どの程度、 どういう形で参加されて決められていくかという、 デザインプロセスの状況の扱い方ではないかと思います。
これはデザインを決定していくデザイナー、 プランナーというテクニカルな解決をする人たちが非常に不得意な分野です。 それは「デザインを決定する過程で、 自分の頭の中や、 それぞれのデザインの基本となる辺りを公開せよ」「それを人々の手に委ねろ」ということに近いわけです。 私も建築の設計や都市の計画設計に携わっておりますのでよく分かるのですが、 決定のプロセスとかシチュエーションを公開せよと言われても対応に困ります。 「心外だ」とか「断固として拒否する」というわけではなく、 むしろ躊躇と困惑、 どうしたらいいか困るというのが実態ではないかと思います。
また、 参加型デザインに参加する関係者、 構成員の方々が、 デザイナーなりプランナーのそういった躊躇や困惑に理解を示していただけない、 というところに大きな問題があると感じております。
そういったことを問題にするのが、 今回のフォーラムの中心的なテーマではないかと思います。
結果としてのデザインはどうか、 方法論としてはどうかというのが問題ではなく、 プロセスそのものをいかに理解するか、 ということはなかなか一筋縄では行きません。 そこで、 このような問題の解明のために、 3つのセッションに分かれて討議するということにいたしました。
問題はどこにあるのか
このページへのご意見はJUDIへ
(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai
JUDIホームページへ
学芸出版社ホームページへ