これは、 結局は情報公開と地域主権に行きつくのではないかと思います。 今いろんな場面で「情報公開と地域主権が問題である」と言えばほとんどのことは済んでしまいます。 逆に言えば、 ほとんどの問題が情報公開の遅れと責任主体の不明確さに起因していると言えるほど、 社会システムとしてこれらが遅れているということです。
参加型においてはデザイナーが関係者に対してデザインプロセスをどう説明できるかが、 情報公開の真意だと思います。 デザインプロセスの公開、 説明は非常に難しいと思いまが、 参加と言いながらこの点をないがしろにしてはどうにもなりません。
絵や彫刻をする方、 あるいは映画を作られる方は、 それなりの信念とプロセスを持っておられるでしょうが、 それを公開する必要はほとんどありません。 しかし、 社会的な存在である都市環境デザインについては、 少なくともデザインを判断する基準を、 デザイナーとして提示することが重要です。 都市環境デザイナーには説明責任があるのではないか。 ですから参加とは結局はデザイナーの情報公開に行きつくのではないかと思います。
一体何を情報提供すべきか、 何を判断してもらうのかについては難しく、 また実際には慣れていないし、 やって来なかったのではないかと思います。 建築もかなりの部分そうかと思いますが、 例えば壁の色、 瓦の色をどうするか。 これがいいよということで終わってしまっていました。 周りの景色の中での色の位置付けや、 風土としての長い歴史的環境の中での色の在り方、 あるいは赤い瓦は今の日本に合わない、 暑く感じるなどなど、 精神的社会的背景の中で色合いを決めるというプロセスが、 デザイナーというブラックボックスの中で瞬時に行なわれるというプロセスがある思います。 それを全部説明しろというのはなかなか難しいかもしれませんが、 都市環境デザインにおいてはそれが必要で、 避けて通れない責務としてあるのではないかと思います。
もう一つ、 参加型デザインを決定している重要なものは、 決定する人たちの立場あるいは参画される方々の権限の問題です。 ワークショップをしたり意見交換をした結果がどういう形で反映されるか。 例えば公園の中に木をたくさん植えて欲しいとか、 この木が欲しいとかいろいろ出てくるでしょう。 それがそのまま反映されることはないと思います。 しかし、 デザイナーが、 参加者の反応や参加の結果を消化して反映させなければ、 参加する意味がありません。 結果への権限をどういう形でそれぞれの参加者に返せるか。 返せるかというのは変な話ですが、 どうすれば本来自分たちで決めたことがこういう形になったということを実感してもらえるかと言うことだと思います。
例えば100人が50通りの答えを出して50分の一ずつ混ぜ合わせたら、 それが答えだというものではないと思います。 そういう形でしかデザインできないのであれば、 都市環境デザイナーとしての意味はありません。 50通りの考え方から最大公約数を見出す場合もあるでしょうし、 50通りの考え方を全て放棄し、 自分の考えを50人の方に説明し納得いただく方法もあるでしょう。 そのプロセスそのものをどうデザインするかが、 重要な答えを出すデザイナーとしての責任だと思っています。
今までの日本の都市計画は、 用途地域や都市計画道路という一番基本的なところで参加がいい加減でした。 都市計画法で定められた意見書を出し、 審議会を開いてというシステムはありますが、 結局のところは地域や個々人からの要請がブラックボックスの中でごちゃごちゃっと攪拌され、 何か分からないうちに決まってしまうという姿だったと思います。 港湾計画やその他の計画に比べればこれでもかなり民主的だと思います。 しかし今の都市計画法は、 攪拌された結果、 何かわからないままで終わっています。 これでは結果への権利を保証されない参加でしかなく意味がありません。 参加型デザインにとっての参加が同じ轍に陥っては困るのです。 参加した結果がどうなったのか、 それをどういう形で証明するか、 また参加型デザインそのものをどうデザインするかが、 都市環境デザイナーの役割ではないかと思います。
情報公開と地域主権から参加型を考える
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