全体としてみれば都市環境はそんなことが問題になる以前のひどい状態です。 その一つの要因は、 利権社会・土建国家という言い方がありますが、 市民のニーズ等をベースにしないものの作られ方がこれまで行われてきていることにあります。 専門家は従来そういうものの渦中にありながらチェックすることが出来なかったのが事実です。 ですからそういうものをチェックする機構として参加が重要です。 その前提として、 情報公開が鍵になるだろうと思います。
もちろん、 場合によって参加が地域エゴという新たな利権を産むかもしれません。 しかし、 いずれにしても参加によって質が低下するという状況ではないと言わざるを得ません。
もう一つ、 専門家は本当に真剣に作っているかということです。 そんなことを問わなければならないほど、 まちを覆っている多くの物はいい加減に作られています。 とりあえず作られているという感じです。 専門家は“とりあえず文化”に染まってしまっているのではないでしょうか。 ならば、 もうちょっと考えて作れよと、 熟慮を促す機構として参加が有効に機能するのではないかと思います。
例えばデザイン審査とか委員会方式での参加も含めて、 B級作品の質的向上に参加が有効なんじゃないかという指摘がありうるかと思います。
これらはむしろ上からの参加に否定的、 つまり参加するかどうかの選択も市民がするべきだという反論だと思います。
しかし事前に図面などをみて「この空間はこうなるはずだ」と確信を持てるようになるには、 よほどの修練が必要で、 一般の人に求めるのは難しいと思います。 これを補う手段として、 例えば模型を作る、 映像的なシュミレーションを使う、 デザイン審査にあたって作る側に立っていない専門家にアドバイスをもらうなど様々な工夫がされています。
ワークショップのプロセスで、 作る課程を細分化しておくのも工夫の一つです。 敷地選定から大体の利用の仕方など、 それぞれの段階で選択を繰り返すように仕組むことで、 何もないところで完成されたものをイメージするといった無理をしないための方法です。
このように選択のプロセスを工夫することも大切ですが、 作る前にとにかく選択しなければ意味がないというこの都市環境デザインの特殊性を、 その工夫によってどこまで乗り越えられるかがやはり問題になっています。
またこのように作るプロセスを細分化して選択の場をたくさん作れば作るほど、 ある意味では参加によって製作が妨げられるという危険性も大きくなるとも考えられます。
「優れた建築家なら勝手にやっていただいたほうがいいんじゃないか」という考え方もあるかもしれませんが、 A級とB級をどう区別するのかが実際には問題です。
デザイン審査に関わったことがありますが、 そういった場で「地方の建築家がやったものは審査してください。 東京から来た偉い先生のものは説明を聞くだけにとどめてください」と言われたことがあります。 それでは釈然としないわけです。 “A級”とか“優れた”とかいった議論はデザイナーには心地好い面もあるでしょうが、 こういった現実がとても気になります。
思いつくままに問題提起をさせていただきました。 セッションIIIには東京から哲学者の伊東先生も参加いただいておりますので、 目からうろこを落したい人はぜひセッションIIIに来てください。
(2)求められる
前から指摘されていることですが、 参加によって初めて価値を共有することによる一種の協同性を育てられるのではないかと思います。 自分が馴染み愛着を持ったものを都市の中に拡大していくために参加は大切です。 自分が作ったもの、 自分が関わったものに対して愛着が沸くのは当然ですので、 出来合いのものを選択するだけではなく、 作るというプロセスへの参加が製作のプロセスの中にもっとあって良いはずです。 これは、 製作には参加が邪魔なんだというアレントの議論に対する反論としてありうるかもしれません。
公的領域の拡大・共有される価値の増大
(3)参加による
以降は逆の立場からですが、 “参加による無責任体制の蔓延はもう始まっているのではないか”という指摘や、 動員型社会が来つつあるんではないかという指摘があります。 これは文部省が義務教育課程の中にすでにボランティアなどを組み込みつつある状況を踏まえての指摘です。 また行政や専門家の責任回避がすでに始まっているという指摘もあります。
無責任体制の蔓延が始まっていないか
(4)“事前の選択”に伴う困難は
先ほども触れましたが建物などの公共物を一旦作ってしまうと、 数十年はそこにあります。 アレントの言うように、 できたものをどう扱うかを市民に任せるべきだ、 というのはその通りかもしれませんが、 事前に選べないと困るのです。
どこまで解消できるか
(5)参加する市民をどのように限定するのか
小林さんは誰が参加するかは自明であると言われました。 そういうケースも多いかとは思いますが、 例えば街並み保存では、 守りたいという人の広がりと、 それでは不便なんだという人の広がりに大きなギャップがあります。 地域のコミュニティだけが参加の主体であるうちはいいのですが、 いろんなことに関心を持っている人たちの集まり、 テーマコミュニティみたいなものも参加したいと言ってきたとき、 どう考えていくか。 単純に市民が選べばいいといっても、 誰が市民なのか。 世界遺産などは人類的な価値をもっているという見方をされているわけですから、 市民だけで世界遺産を潰そうと決めても良いのか。 その辺をどう考えていくかというのがやはり問題です。
(6)“A級”デザイナーをどう位置づけるか
たとえば優れた建築家ほど都市に個別的に“あらわれ”たい。 そうすることで、 自分は社会に参加しているという感覚を持っていると思います。 そういう自由なあらわれ方に対して、 ここでいう“選択”とか“製作への参加”は、 むしろそれをチェックしたり抑制したりする側面を持っています。
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