私はほとんど意味が分からなかったんですが…(笑)。 私も参加型まちづくりのお手伝いをしております。 お手伝いをする姿勢として、 参加してくれる人たちの思考を止めないようにしたいと考えています。 運動的な話かもしれませんが、 出てきたものを下手にまとめてしまうと分かった気になって、 みんな気分がいいのだけれども、 それで終わってしまっていることが多いような気がします。 ですから出来るだけ参加してくれた人の思考が続いていくようにと考えています。
私自身は都市計画の中でも道路を計画することについての専門家だと思っているのですが、 道路設計だとまた違うのでしょうが、 道路計画では、 参加型のまちづくりの話が出てくることは、 これまではありませんでした。 ただ、 最近は交通社会実験によるなどの取組が行われ、 必然的に地元の方々と話しをする機会が増えつつあるのが現状です。
交通の話は渋滞など目に見えるものはわかりやすいのですが、 それについての対応策と交通条件の関係、 さらに道路だけではなく、 公共交通とのバランスなど総合交通体系的な話は、 なかなか地元の方々にはわかりにくいところがあります。 それをわかりやすい言葉に翻訳するのが、 専門家として大切なスキルになってくるように思います。
道路に関する地元説明会みたい「説明」をしても駄目なのだと思います。 むしろ、 それと生活との関係などがリアルに話ができることが大切だと思います。 生活の話を出してもらうことが大切なように思います。 地元の人の「幹線道路の計画で地域が分断される」というような話でも、 実際にこれまで地域はどのように連携していたのか、 新たに何が分断されるのかという話をして貰うことが必要だと思うのです。 その上で何が出来るのか、 何ができないのかを、 これまた地元の人々と考えられればいいのですが。
都市計画や都市デザインの専門家ではなく、 参加型まちづくりの専門家という人々がおられればいいのですが、 なかなかおられないようです。 それで、 私なども参加型まちづくりに関わることになっていると思います。 都市計画の専門家として関わる時に、 どういうスタンスで関わるのかということが、 なかなか言えないですね。 ですから参加された方々の思考をできるだけ引っぱり出すとか、 思考を、 彼らが考えている範囲よりももう一歩先へ行けるようアドバイスすることが、 今のところ私に出来ることだと考えています。 それは先ほど佐々木さんの言われた「人の話を聞くこと」と似ているのかもしれません。
丸茂:
言葉の使い方として、 少なくともここに参加している人たちにわかるような言葉で話すということは大事なんでしょうね。
土井:
共通のイメージで共通の事柄が話できているのかということが重要だと思います。 例えば計画と設計と施工の段階の思考は違うしアウトプットも異なるのですが、 それが未分化な感じがします。 先程の石の舗装の問題と、 その道路を地域の状況を踏まえたどんな道路にするのかという問題と、 地域を創る上で、 その道路の果たす役割というものは、 同じ道路であっても、 少しずつ違います。 これをきちんと専門家の方では整理して、 しかも住民にから出る意見の交通整理をしていくことが大切というように思います。
参加は入り口であって、 議論の半分しか進まないのではないかと思います。 先ほど小浦先生が何に納得するかということをおっしゃったのですが、 大事なのはこの「納得」ということではないかと思います。 計画レベルでは「ようわからん」という所を見過ごしてしまう所に大事なポイントがあるような気がします。
参加するんだけれども納得できていない。 納得できていないから知らず知らずに進んで、 最後の施工レベルの、 問題が分かりやすい所で紛糾すると。 この「納得」のプロセスですね。 今日のタイトルも「参加型のデザインを探る」となっていますが、 大事なのは「参加」と「納得」なのではないかと思います。
参加の議論を始めても登りつめることはできても、 着地はできないのではないかという気がしています。
松久:
今「納得形成」というご意見をいただいたのですが、 ワークショップをしたときも住民のみなさんが「納得」できる、 行政も「納得」できる、 企業も「納得」できるというあり方は、 最終的には人と人の関係になるんでしょうか。 その辺についてご意見はありませんか? 「納得」の仕方、 「納得」のさせ方についてです。
谷口知弘〔京都工芸繊維大学〕:
設計者の立場で携わることが多いのですが、 デザイナー・設計者が参加のなかで、 自分のデザインに納得しているかどうかという問題もあるように思います。 なぜかというと、 ついつい住民におもねる、 住民の人が納得するようにデザイナーがサービスしてしまう感じが、 なきにしもあらずではないかということです。 デザイナーの関わり方が今あいまいなのです。
私自身はデザイナーとしてなぜ参加を取り入れるのかというと、 質の高いデザインをするためです。 参加によって最も短期間でローコストでしかも良いものが出来るという立場を取っています。 先ほど、 プランを立てる話と設計する話には相当差があるというご指摘がありましたが、 私自身は実は一体的なものではないかと思っています。
私は現在、 プランニングの段階から実際の設計まで関われることが多く、 コスト的にも期間的にも効率的に進めることができますし、 また、 デザイナーとしても有利なことだと思っています。 実際の行政の予算の組立とか契約の仕方を考えると、 その辺は非常に難しいのかもしれませんが…。
しかし、 プランから設計への流れのなかで、 デザイナーがどういう立場で、 どういう責任を持って関わっていくのかということを見つめ直さないと、 参加が行政にとってもデザイナーにとっても、 免罪符になってしまうのではないかという印象を持っています。
共同住宅の設計プロセスを見ていて思ったのは、 住戸プランという個別な空間については個別に対応するのですが、 1つの建物に、 どういう屋根をつけて、 どんな窓をつけて、 どんな色にして、 どんな素材にするかについて、 住む人の意見を聞くことは、 その場所を理解することではあっても、 デザインを決めるものではないということです。 デザインを決めるのは設計者です。
聞くということで、 その場所とかその人の住み方などの情報が入ってくるわけです。 「こういうまちでありたい」「こういうふうに生きてきた」「こんな生活がいい」とかですね。 それを十人いれば十人が違うことを言ったとしても、 建物としては、 一つのものをつくるわけです。 そこではデザイナーは聞いているんだけれど、 聞いてないんです。
ただ私は、 デザイナーが、 つくったデザインについて、 相手に分かるように説明できるかどうかは重要だと思う。 専門家はデザインに責任を持つが、 参加においては人々の納得のプロセスに対しても責任があるのではないかと思います。
田中(康):
インプットは同じでもアウトプットは人によって違ってくる、 その人のなかに変換装置があるということではないですか? それぞれデザイナーの個性があるわけですから。
田中〔三〕:
どの程度、 理解してくれているか、 というだけのことでしょう。
私は色彩の方でまちづくりに関わっているんですが、 今の話では家の屋根や壁のデザインについて、 形をばかり意識されているような気がします。 これは建築のデザイナーの一つの特質だと思うんです。 まちづくりや計画家ではどうでしょう。 その地域であったり、 場所によって引き出す部分がかなりあるように思います。
まちづくりのなかでは、 みんなが参加するといろんなものが出てくるわけです。 出てきたものをどうまとめるかについては、 デザイナーのまとめ方とプランナーのまとめ方、 また、 アーティストのまとめ方は全然違うわけです。
町並みを考える時、 どこにどういうモノが使われているかという話は、 色彩の立場からすると、 ちょっと後に置きたいという思いがあります。 地域性はその地域の色が本来素直にもっているものではないかと考えています。
松久:
参加型デザインでは、 平均化された、 みんなが納得するデザインになってしまうのではないかという議論もあると思いますが。
澤:
まちづくりは一人のアーティストに任せた方が良いまちができるとおっしゃる方が非常に多いですね。 それは違うと思うんですが。
松久:
納得すれば、 良いわけですか(笑)?
レベルが二つあって、 デザイナーの手法として、 自分の技量や経験を増す意味で参加を取り入れる方法、 つまりある意味でデザイナー主導で参加はその選択肢の一つになる場合と、 デザイナーはいるけれども参加してみんなが納得することを目指す方法というのが、 両極としてあると思います。 そこにかなり幅と言いますか、 段階がありますね。
参加と私のスタンス
参加した人の思考を止めないこと
土井勉〔千里国際情報事業財団〕:
納得のあり方について
田中(康):
聞くことと妥協すること
小浦:
土地に聞くと言うこと
澤一寛〔日本カラーテクノロジー研究所〕:
伊東:
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