参加の最初の局面で経験したことをお話したいと思います。 徳島県内で小さな公園をつくる際に、 ワークショップで出てきた住民の方の意見なのですが、 「夏ごろになると、 ここは良い風が吹く」というものがありました。 これは専門家、 モノをつくる人間には決して分からない情報です。 結果的に当初トイレを予定していた場所が「涼風広場」という風を活かした空間になりました。 これは住んでいる人の「自己発見」が参加によって出て来ていると思います。 先ほど「システムの自己言及」とおっしゃったのですが、 私は「自己発見」だと思っています。
それが最終局面になると、 二つの面があって、 情報収集する場合はどんどん情報が拡散していくのですが、 モノづくりやプランづくりについては収斂していく。 そうするとどうしても「合意」とか「納得」ということになるのですが、 私自身は「合意」はないと思っています。 公園に関しても地元の方の意見は完全に二つに分かれてしまいました。 「合意」ではなくて、 「納得」あるいは「相互理解」くらいで、 お互いにお互いを思いやるということで終わるのではないかと思います。
小浦:
デザインをする対象には、 橋とか建物のように完成する、 開通することで「つくる」という行為が一応完結するものがあります。 一方「まち」はずっとあるわけです。 でき上がりの区切りがある「つくる」プロセスへの参加ということが一つあります。 しかしそうして出来たモノでも、 そのモノを含む環境の中で、 変わっていくわけです。 例えば、 住宅でも窓辺に布団が出たり、 花が出たり、 増改築など手のかけ方により変わってゆきます。 先ほどのグラインダーをかけると道は変わるという話もそうです。 環境への参加は、 フィードバックしながら続きます。
「合意」ではなくて「納得」であるとは、 そのプロセスに参加した結果、 理解できるということ。 だからある計画なりデザインを決めていく時に、 反対していたとしても、 この条件ならこうなるかなと理解できることが重要で、 納得したならば、 そういう判断をした個々の責任が発生することが参加だと思うんです。 取り敢えずやってみて、 「これはいいね」という「納得」も参加だと思います。 理解したうえでやってみることの繰り返しみたいなところがある。
松久:
要するに「納得」といっても、 最初から「納得」できるかどうかなんて分かりませんよと。 時間が変わることで「納得」出来ることもありますよということですね。
小浦:
反対していても、 その区切り区切りで自分がその場にいて「やってみよう」と言ったならば、 あとで「私はやっぱり反対だったんだ」ということは言えないというのが、 参加の基本だと思うんです。
伊東:
繰り返すことで、 参加というのは前提を共有するんです。 ばらばらであった前提を共有するのです。
小浦:
参加したら自分の問題として捉えましょうよ、 ということですね。
「合意」ではなく「納得」
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