では役所の人は今どうして参加をやっているかと言うと、 お金を節約しようと思っているに違いないんですね。 そこらじゅうで仕事が出来ないものだから、 参加がうまく出来た所で仕事を進めていきたいという策謀です。
住民はどうかと言うと、 いろいろあるでしょうが身の回りで起こる環境を納得できるようにしてほしいというのと、 出来るだけ愛着を持てるようになったらいい、 これはもう誰でも思う当たり前の事なんですけれども…。
こうした三つのベクトルでは、 それぞれ考え方と方法論が違います。 その三つの方向のどこから参加を考えようとしているのかということとをちゃんと分けて議論すべきです。
また既存の環境と公共空間が相手である時に、 プランナーやデザイナーは役所から請け負って仕事をするわけで、 ここでまず役所の仕事を手伝わないといけないという宿命があります。 そういう関係のなかで、 この十年ほどの間に参加という新しい仕事の仕方が生まれてしまったわけです。 その中には、 それぞれの方法論の問題もあるし、 ここで本当にいいものをつくるにはどうしたらいいのかといった議論もあると思います。
先ほど佐々木さんがおっしゃった生活風景ということ。 参加を得て何かをつくって、 つくったものが暮らしの中で関係をつくっていくというように、 いろんな段階がありますよね。 先ほどの例では参加を得て公園をつくって、 その公園が参加の中でだんだん汚くなるんだけれども、 結構いい味のある公園になっていく、 生活化していくんですね。
しかし佐々木さんは二刀流を使っていらっしゃって、 参加で味が出てきていいという場合もあるし、 そういうものは無視して「これがいいんだ」「これこそが」という場合もある(笑)。 場所によって、 馴染むことでデザイナーが意図したものよりいい空間が出来る場合と、 そういうものとは関係なく決然として美しいというものもあるわけです。 その両面はケースバイケースで現れ方が違ってくると思うんですが、 私はその両面に関心があります。
議論を整理するために
参加と三つのベクトル
鳴海邦碩〔大阪大学〕:
参加の三つのベクトルの図
ここで少し整理してみましょう。 プロのプランナーやデザイナーがどうして参加ということを考えなければいけないかというのは、 ずいぶん昔から議論されています。 1960年代、 すでに社会学者の人たちが、 環境はプランナーやデザイナーがつくるけれども誰も使わない、 使い勝手が悪いのはどうしてなのかということを研究していました。 そこにはプランナーやデザイナーは可能性のある環境はつくれるけれども、 実効的な環境は誰もつくっていないという批判であったわけです。 ではいったい何を勉強しなければいけないかと言うと、 市民から学びなさいと言ったわけです。 これがプランナーやデザイナー側からの参加へのベクトルです。
デザイナーは両刀遣い
鳴海:
このページへのご意見はJUDIへ
(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai
JUDIホームページへ
学芸出版社ホームページへ