前半は、 それでも分からなかった。 何度か読むと難解さの泥沼の彼方にほんのりと光っている出口らしき物が見えるような気がする。 それはひょッとすると日常の言葉で、 現実を語っているだけでは見えてこない何かなのかもしれない。 だが、 手が届かない………。
そんなわけで伊東先生にはさらに無理をお願いして、 加筆していただいたのだが、 多少はご理解いただけただろうか。
思うに伊東氏と多くの発言者の間には大きな溝があったのではないか。
伊東氏は「人権をはじめとした普遍性の希求が現在のデザインに求めれているものであり、 それには誰も異存がないだろう」とされ、 とりわけ都市環境デザインは環境を扱う以上、 従来の天才型のデザイナー(主体)による作品(客体)という方法はありえないとされていた。
その上で、 デザイナーが環境と一応切り離されている「最適化によるデザイン」と、 デザイナーが環境に取り込まれている「自己組織化・自己言及によるデザイン」の両極にわけて見せられた。 これは鳴海・丸茂氏の言葉を借りれば「象徴性を目指すデザイン」と「生活風景のデザイン」にほぼ対応していると理解すると分かりやすいように思う。
ところで両氏の発言からも明らかなように、 デザイナーには決然として美しいものは参加からは生まれないという思いがある。
だが伊東氏によれば「最適化によるデザイン」でもデザイナーは多数ありうる最適解の一つを提示しうるに過ぎず、 選ぶのは市民(主権者)である。
イタリアでは「象徴性を目指すデザイン」の設計コンペにおいて市民が投票で選ぶこともあると聞いた。 投票で美が選べるのか。 素人にアートが分かるか、 と言いたくならないだろうか。 歴史という大きな枠組み、 長い時間で見れば明らかに選ばれているのだが、 その時々の投票で、 とまでは割り切れないのがつくる側の現実だろう。
一方、 「自己組織化・自己言及型のデザイン」である。 ここにおいては行政も専門家も住民同様、 暗中模索しながら自己変革し創造してゆく主体の一部にしかすぎないとされる。 だからデザイナーというより調整役とか、 案内役といったほうが相応しいかも知れない。
だが、 現実に行政・専門家と住民が対等かというと、 全然違う。 行政や専門家が強権的であってほしくはないが、 無責任であってほしくもない。 だから「住民の言うことを聞くことが参加ではない」というのは頼もしい。 「お前らが決めたんだから後は知らんで」というのは無責任だ。 だが、 有光氏の言われるように専門家が拒否権を持ってしまっては、 行政の思惑通り合意するための参加に過ぎない。 最後の一線は守りたいというのは専門家の使命感なのか、 身勝手なのか……
もう一つ伊東氏が言われたことで気になるのは「デザイナーの手法として自分の技量や経験を増す意味で参加を取り入れる方法と、 デザイナーはいるけれども参加してみんなが納得することを目指す方法」が混在して議論されているという指摘だ。
アートでも、 子供に絵の具を渡して壁に投げ付けてもらって作品とするといった参加の手法があったように思う。 それが参加型デザインかというと、 本質的には違う。 アーティストが作りたいものを作っているに過ぎないからだ。 一方、 参加型デザインにおいて、 必ず参加型のデザイン手法が必要かというと、 必ずしもそうではないと思う。 住民が全部を手作りするなんて望んでいるわけではない。 どこかからは信頼できる製品、 専門家に任せたい。 デザインもプロに任せたい。 だが、 あいつらは自分勝手なものをつくるんじゃないか……。
考えてゆけばゆくほど、 まとまりのない問題がぞろぞろと出てきてしまう。
とはいえ参加型という動きが出てきて、 いままでまかり通っていた「デザイナー」と「作品」という関係が崩れたということだけは、 結構なことだ。 作品として完結しないと思ったとき、 大衆社会・複製芸術が新しい世界を切り開いたように、 参加という営為の中から新しい地平が生まれてくるに違いない。