日本では明治以降、 都市活動の発展に伴って都市化が進展してきたわけですが、 おそらくその時に、 ヨーロッパなどの先進国に追いつけ追い越せということで、 国がいろんな基準を決めたりマニュアルをつくって都市づくりを推し進めてきたと思います。 最近までそういう状況が続き、 マニュアル・基準が先導役になって現状のまち並みや都市ができてきたわけです。 ところが気がついてみると、 関西圏でも東京圏でも、 ほんとうに個性のないまちが、 あるいは環境という面でも全く不都合なまちがたくさん生まれました。
日本は右に倣えで、 一つ決めるとそちらに傾く癖があると私は思いますが、 もう少し地に足をつけた政策なり考え方、 教育がいるのではないでしょうか。 私も久保さんと同じ意見ですが、 風水とまでは言わなくても、 日本には地域地域ですばらしいものがあったのです。 今でもあります。 扇状地形で清い水が上から流れてきて、 どこからでも水が取れます。 たとえばスイスなんかは、 絵で見ると美しいかもしれませんが、 3000m、 4000mの高さで、 氷河の近くまで牧畜がされていますから、 生の水は飲めません。 そういうふうに見ると、 日本には清い水があり、 そこに稲作を基礎とした農村の生活や伝統的な行事が定着してきました。 そういうものをちゃんと見直さないといけないと思います。
これまではどちらかというと、 ヨーロッパ型のものを持ち込んできました。 近隣住区論などは私は最悪だと思いますが、 100haで1万人だと言うわけです。 しかし100haのまちづくりをしようと思うと、 山をカットし谷を埋め、 反環境共生のまちをつくらなければなりません。 しかし、 専門の世界では未だに近隣住区なんて言葉を平気で使っています。 こういうことのを見直さなければならないのです。
大学教育でも、 近隣住区論をまだ教えています。 近隣住区論の使い方をきっちりと教えるなり、 ものの見方のベースを教える、 あるいは、 基準やマニュアルがあってもいいのですが、 その悪弊や限界をきっちりと教えていくのが大学の役割ではないかと思うのです。
ここにも大学の方が多数おられますので、 どなたでも結構なので、 そのあたりについてお聞かせ下さい。
土井:
最近は近隣住区論をそのまま教えてはいません。 千里ニュータウンにしても泉北ニュータウンにしても、 近隣住区がいろんな問題を起こしているという話も合わせて教えていますので、 そんなに心配されなくても大丈夫だと思います。
全国一律の基準をあてはめて地域地域の特性を活かさずにまちをつくる傾向があったことは確かです。 奥貫さんが「国見」という話をされましたが、 その一方で、 よく知っている地域の単位があって、 そこに住んでいる人々が納得してやっていく世界があります。 先ほども紹介しましたが、 集落単位で風景をつくっていく努力をみんなでやっているということは、 滋賀県の大きな第一歩だと思います。 「土地に聞け」と言うように、 やっぱり地域の人と相談することが大切です。 もちろんそうすれば良いものができるとは限らず、 専門家の役割もあるのですが、 「土地に聞かない」システムに問題があると思います。
画一的な考え方は改まったか
田村:
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