環境共生型都市デザインの世界
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道修町のまちづくりを考える
--薬屋を街の顔にする

 さて、 今日お話ししたいのは、 大阪の道修町を一つの事例として、 都市のマーケットストックの活用の可能性についてです。

 ご承知のように、 御堂筋を中心とした大阪の顔は、 今非常に景気が悪いです。 東京と大阪の以前の集積比率(主として経済的比率)は東京6:大阪4だったのですが、 今では東京9:大阪1とさらに差がつきました。 再開発の計画をしても大阪では事業として成立しないことが多い状況です。 ですから、 東京と同じような計画をしても実現はしないだろうし、 これからどういう風に考えていけばいいかをお話しできれば思います。

 そこで一番分かりやすい例として、 道修町の活用の可能性を考えてみます。 ここの再開発計画はおそらく私の最後のライフワークになるだろうし、 今しゃにむにやっているところです。

 今、 大阪の都心の再開発提案としていろんな案が出されていますが、 中身を見ると言っていることは大体同じなんです。 1階にブランド店を持ってきて、 上にIT設備を装備してベンチャー企業を誘致するというものです。 ところが、 具体的にどこが入るのかと聞くと、 そこまでは誰も決めていません。 IT設備にしても役所がお金を出さない限り、 集団としてやる人はまずいないでしょう。

 そこで発想をまず根本から変えてみてはどうかと、 私は申し上げたい。

 例えば、 大阪の方はご存知でしょうが、 道修町には医薬関係企業の大集団があります。 この街には創業三百年の老舗が20軒あります。 そんな老舗が20軒もあるのは、 世界中で道修町だけなんです。 みなさんもご存知のシオノギ、 タケダ、 フジサワ、 タナベもその中に入るんですが、 これらの薬屋さん二百軒あまりの売り上げは関係業界を含め、 年間6〜8兆円といわれています。 これは世界一の売り上げです。

 薬関係と言っても、 医薬品から医療機器、 化学薬品、 農薬まで様々なメーカーが集まっている街なのですが、 世間一般には問屋街としてしか見られていません。 だから、 再開発の話になっても、 この街の特色を生かすという話題さえ出てこないんです。 そこで、 私は道修町の薬屋の顔をまちづくりのメインにして、 それを活用した施設を御堂筋等に計画、 実現させてはどうかと思うのです。

 日本の医薬品業界は、 世界の医薬品業界の中でも特異な発展をしてきた業界です。 薬屋は江戸の当初は漢方薬を扱っていました。 それが慶応の時代ぐらいから西洋薬を輸入するようになって現在まで続いているのですが、 特異な発展というのは西南戦争から日清、 日露、 第1次大戦頃まで輸入・情報が途絶えてしまって、 自分たちで作らざるを得なくなったという歴史があるためです。 薬品の検査は明治になってから幕府から政府に引き継がれ非常に厳しくやってきたのですが、 業界を育成するということは政府としてはやってこなかった。 医薬品は産業としてほとんど認知されていませんでした。

 この点、 アメリカは医薬品メーカーが産業だということをはっきり自覚していました。 戦前のいろんな戦争で医薬品メーカーが軍隊と一緒に戦地についていったのは日本もアメリカも同じなんですが、 日本の医療班は自らの軍人達の治療に薬を使いました。 しかしアメリカの医療班は、 戦闘に巻き込まれた現地の一般市民の医療活動にも従事しました。 そして、 引き上げる時には大量の薬を現地に残してきました。 戦争が終わっても、 その国の人はアメリカの薬を使うようになったというわけです。

 この差は、 今に至るまではっきり現れています。 例えば、 日本人なら誰でも知っているタケダというメーカーが薬屋だということは、 世界でほとんど知られていません。 規制緩和で外国の薬がどっと入ってくる時代ですから、 日本の薬も外国に売っていきたいのですが、 アセアンにさえ売れない状況です。

 そんな状況だからこそ情報発信できる基地を作って、 世界最高の売り上げを誇る老舗の薬屋街があるんだという骨組の上で、 まちづくりを考えていく必要があるんじゃないでしょうか。 アメリカ村、 ヨーロッパ村の北はカナダ村というのも悪くはないでしょうが、 道修町に見られるようなストックという、 せっかくあるオリジナリティに目を向けて欲しいと思います。

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