司会:
では、 ここで会場からのご意見をたまわりたいと思います。
今日のお話の中で印象に残った言葉は、 午前中の日高先生の基調講演の最後に「世の中がみんな綺麗になりすぎ。 綺麗だけでなく、 もっと別の課題もあるんじゃないか」ということです。 私も、 今の現代人はきれいという概念が染みついているんじゃないかと思うのです。 近代デザインの中には「幾何学的で単純な清潔感が美しい」という美意識があったと思うのですが、 21世紀のデザインはそれが変わっていかないとダメだと思うのです。
しかし、 21世紀を迎えようとしている今、 美しいとか綺麗という概念はどうなっていくか分かりませんよと、 例えばビオトープの存在がデザイナーに問いかけているわけです。 しかし、 もしかしたら、 ビオトープや猥雑感がデザイナーの美意識の範疇に入るのかもしれない。 そのことをもう一度、 真面目に議論する必要があるのではないでしょうか。 その延長線上に考えれば、 21世紀に向かってJUDIが新しいアテネ憲章みたいなものを作ることが考えられると思います。
ただ、 私は今の議論は「美しい」とか「きれい」の概念が、 まだモダンデザインの延長上にあって、 それを軸にして議論されているように思います。 それを超えたところで、 新しい美意識を議論できたら面白い。 それは東洋的美意識の検証にもなると思います。
今西沢さんがおっしゃったことと近いことですが、 日本の風土の中でデザインする場合、 カビやコケやシダそして雑草や落ち葉が溜まっていくことは避けられないことです。 みなさんがデザインしたものも、 3年も経たないうちにそうした問題に直面すると思われます。 現にコンクリートの壁面にカビが出てきたり、 目地にこけが生えてきたという話はいっぱいあります。 日本でデザインするなら、 そういう風土なのだということを覚悟しなくちゃいけないと考えています。
逆に言うと、 カビやコケやシダそして雑草や落ち葉の問題が出るたびにせっせと片づけなければならないような建物では、 維持管理も大変だし、 実際、 そんなことでは時間が経つと街になじむような良いデザインと言えるのかは疑問です。 ですから、 そういうことも考慮に入れて、 日本の風土になじむデザインをやっていくべきだと考えています。 その辺はみなさんによく考えてもらいたいと思っています。
私は第2セッションの都市ストックと環境共生との関わりの話を聞いていましたが、 私が一番気になったのは都市に関わっている主体が誰であるかでストックの評価も変わってくるのではないかということです。 今後、 どのような戦略を選ぶかもそれによって変わってくると思うのです。 つまり、 ストックを肯定的にとらえる主体と否定的にとらえる主体が、 これからますます顕在化してくるように思われます。 ですから、 都市戦略をひとつの考え方でやっていこうとするのは段々難しくなってくるような気がする。 それがストックの話を聞いていて感じたことです。
もう一つ思ったことは、 西沢さんが触れられたように、 環境共生への関心は工業社会が行き詰まると発生する問題であって、 それが生み出されてきた背景は工業社会が生み出した価値観(例えば清潔がいいという意識)以外のものが人々の意識から脱落していって、 今の現代人の価値観を作り出してきたことへの反動じゃないでしょうか。 工業社会以前の農業社会の環境を今の我々の目で見ると、 とてもじゃないけれど汚かったり不潔だったりすると思うのですが、 工業社会が作った人間の価値観がこれから物差しであり続けるのかが、 西沢さんが投げかけたことだと思います。 また、 それは今後の環境共生を考える上での重要なキーワードになりそうだと考えます。
最初のストックに話を戻すと、 やはりこの問題を考えていく上で何が主体になるのかで、 可能性や戦略も変わっていくと思います。 また、 工業社会の中で培われたものの見方がどうなるのかも、 環境共生を考える上で欠かせない基盤になっていくと思います。 これが私の感想です。
私は「快適性」をテーマにした第3セッションに参加しました。 先ほど下村さんが私見として述べられた「相手に対するお返しは何か」について、 私もいささか私見を述べたいと思います。 やはり環境共生型都市デザインを言いつつも、 自然を主体としているのではなく人間の環境を主体として議論しているのであるかぎり、 「快適性」が出てくるのは必然であろうと思います。 午前中の日高先生のお話にもありましたように、 あくまで私達にとって何が快適かを考えると、 今は「自然環境」が快適な時代なのだと個人的に考えております。
我々ランドスケープデザイナーの最大のホームグラウンドのひとつは、 公園緑地です。 かつてはオープンスペースの主体性のなさや援護射撃のなさから、 オープンスペースであるべき公園がサッカー場や体育館で埋まってくるという批判を受けました。 現在はオープンスペースに代わって、 公園緑地に自然環境保全をキーワードにしたビオトープが作られるようになりました。 それがとてもいいと言われているようですが、 それも公園を「施設」で埋めていくのと同じ発想のように思えてなりません。
公園はやはり都市において人間のための快適環境を提供するのが本来の目的ですから、 自然だけを再生できればいいと考えるものではないと私は思っています。 そのあたりどうするかが、 まだ我々の行き着かないところで、 本当に自然との共生は我々の快適性とリンクするのか、 それは何をもって可能になるのかをきっちり議論すべきだと考えます。
上野さんや西沢さんが今の価値観は本当に変わるのかというご指摘をされましたが、 私は変わると言うよりはむしろ思考の幅を広げるという風に考えたいと思っています。 究極の自然か人間のためだけの都市かというオールオアナッシングの選択ではなく、 やはり連続的につながっていくべきです。 極端に言うと、 国土全体に対してひとつのスケールをもってあたるべきであり、 また工業的デザインや都市デザインの幅のなさを変えていく際、 イメージを固定化するのではなく動態を許容するべきなのです。 それが造るだけのデザインを運営にまで関わるデザインに変えていく方向性ではないでしょうか。 そのあたりのことを、 今日は感じました。
司会:
ありがとうございました。 では最後に、 フォーラム委員長の山崎先生に今日の総括として、 コメントしていただきたいと思います。
会場からの意見
「世の中の綺麗すぎ」を変えていくべき --美意識の変革--
西沢(GK):
19世紀から20世紀の初めにかけて、 バウハウスが新しいモダンデザインを提唱しましたが、 あれは「装飾に対し、 機能性を優先した空間や形こそ綺麗というものなんだから、 みんなもそう思えよ」という運動だったような気がします。 それがいいか悪いかは分かりませんが、 20世紀はこの思想運動で幕開けしました。 その後もアテネ憲章やCIAMの運動があって、 20世紀の都市が形づくられていきました。もっと日本の風土にあったデザインを
成瀬(都市設計工房):工業社会の中で培われた価値観は変わるか
上野(ウエノデザイン):ランドスケープデザインの立場から
大塚(ヘッズ):
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