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Session-2

モノから離れ人間がフローとなり美しい環境を育てる

国連地域開発センター防災計画兵庫事務所/京都大学 小林正美

 かって情報化社会という漠然とした言葉で語られていた未来が、 今日、 インターネットやIT(情報技術)といった、 具体的な「もの」としてその姿をあらわし始めている。 現に私の毎日の生活も、 朝、 自宅でe-mailを見ることから始まり、 充電を終えた携帯電話をカバンに入れ、 海外の出張には常にノートパソコンを持ち歩くことが当たり前になっている。 今の時代を経済的に、 効率的に、 そして合理的に生き抜くためには、 このようなライフスタイルに常に身を合わせていける能力が必要とされる。 そしてそれについていけない人間には、 選択の幅が限定された、 別な環境が提供される。

 環境共生型と呼ぶ都市では、 何を環境として捉えるのであろうか。 それに自然環境を当てはめてみた場合、 人間は自然と共生しているわけではない。 むしろ人間は、 自然に寄生しているのであり、 古代より、 周りの森を燃料として消費し尽くした時点において、 その都市は消滅している。 一方、 捉える環境を、 他者としての人間の存在を意識する人間社会とみた場合(このような見方はデザインの分野では一般的ではないかもしれないが)、 環境共生都市とは、 人種、 宗教、 思想、 階級(自分をアッパーミドルする意識も含む)などの違いを是認して、 お互いに異なる個を持つ人間が、 共に仲良く暮らして行ける都市とも解されよう。 しかしこれは、 人類の永年の課題ではあるが、 民主主義や自由主義の経済社会といったシステムを持ってしても、 未だ世界の各地で戦争や紛争があるように、 なかなか達成し難いものでもある。 これから私達に提供されるIT革命とやらも、 もしそれが人間の格差を広げることに寄与する技術であるならば、 逆に、 人々の能力の差によるコンフリクトを高める恐れも十分にあろう。

 いずれにせよ、 「環境」とは、 自分以外の、 自分と関わりのある世界を有限なものとして切り取り、 それをさらに操作可能な対象として捉えたときに出てくる領域の概念である。 してみると、 これは、 ある集団の人間の側から見て(人類と他の生物との関係も含む)、 都合の良い、 結構、 傲慢な考え方に陥る可能性もあることを、 肝に銘じておくべきであろう。

 「大量生産、 大量消費の悪しき習慣を断ち、 地球の限りある資源をできるだけ長持ちさせて、 人類の生き残りを図るための社会」、 それを新聞等では、 環境負荷の少ない資源循環型社会と定義する。 しかし物理学的には、 資源の循環などは存在せず、 常にエントロピーは増大の方向に向い、 すなわち、 覆水は盆に帰らず、 エネルギーには劣化のみの変化が許され、 それは質の高いものから低いものへの一方向の流れである。 そこにおいて、 私達にできることは、 ただ与えられたもの(地球に今あるエネルギー資源)を、 少しずつ、 大切にしながら(ゴミとしないで全てを資源として活用しながら)、 できるだけ長期間に渡り、 与えられたモノを永く使うことである。 それともう一つ、 地球の外から頂ける唯一のエネルギーである、 太陽光のエネルギーだけは精一杯使いきることにし、 その範囲で生きていける社会を構築すること。 これがエネルギー収支の面から人類の存続を保証させる手立てである。

 急ぐようではあるが、 ここでこの小論の結論を先に述べておくと、 これまでの、 大量生産、 大量消費に始まる資源循環の話は、 全て物理学が牛耳る物質(エネルギー)世界の話である。 そこでの「モノ」やエネルギーの消費を少なくするためには、 これまでこの物質世界で人間がやってきた仕事を、 できるだけ少なくすること、 それ以外に手立てはない。 だからこそ、 これから人間が、 自らのエネルギーを燃やしてやるべき仕事は、 人間の内的な進化を目指す精神世界においてであり、 そこに人類の活動の拠点を移して行くべきなのである。 大いなる精神世界の活動、 それは美を求める文化と芸術、 それに人間に善い行いを教える哲学の世界である。

 「フロー」とか「ストック」という言葉は、 元来、 有形財(モノ)を中心にした経済学(そこではお金の循環はある)の用語である。 そしてこれまで日本は、 道路や橋などのインフラを、 社会資本というストックになると思って、 お金を貯めるのと同じ感覚で、 せっせと整備してきたのであった。 しかし現実に街で見るその姿は、 箱モノと呼ばれる建物からはじまり、 全国至るところで常に見うける道路工事に至るまで、 結局、 すべてのモノづくりは消費でしかなく(いつも壊されている)、 それは物理学的にも正しくフロー(消費のみの一方向への流れ)であったことへの確認であった。

 私がこれから望む社会は、 文化、 芸術、 哲学といった、 質の高い精神活動をストックとみる社会である。 それは人間自身が(遺伝子のカタマリとしての)フローとなって、 人間が人間を介して行う教育という行為により、 文化、 芸術、 哲学といった知的財産の洗練化と継承を、 人間そのモノ、 を介して図るものである。

 しかしその教育には、 当然、 良き教材が必要となる。 これまで、 芸術や哲学(人間が創り出して来た神に近い業)の面では、 これという発展が見られなかった日本では、 かろうじで(今は無くなりつつあるが)自然から与えられた美しい環境が、 一つの教材としての役割を果たしてきた。 それが人々に、 人間を超えたもの(神と呼んで良い)の力(存在)と美を教え、 日本に木の文化なるものを育んできたのである。 日本人に見られる生き方の一つとして、 自然に逆らわず、 与えらた環境に(自然災害にも)受容的な気質は、 この自然との共生より学んだものであり、 それを教えてくれる恵まれた自然環境があったからこそである。

 しかし一方、 異なる個(価値観)を持つ人間どうしを共存させるための、 人間の社会における環境共生は、 日本ではなかなか育ってはきていない。 それは、 人間を皆同じモノ(物)と扱う、 画一的な思考を、 永らく教育として与え続けてきたためでもあろう。 人間に、 善き生き方を教える哲学も、 大学の一般教養の教科書の中に埋没する知識でしかなく、 「美しいこと」と「善きこと」を、 同じものとする哲学も、 デザイン教育の基礎として位置付けられていない。 当然、 美しい環境が人々を善き行いに導くことも、 体験(教科書の実践)として理解されることもほとんどない。 近頃、 ようやく法制化に向かおうとしている、 障害を持った人を差別しないバリヤーフリーのデザインなども、 本来、 日本のデザイン教育の中からは、 出て来るはずもないデザインの手法なのである。

 日本には、 人々に善き行いを促す、 人間が創りあげた美しい環境が、 圧倒的に少ない。 その結果として、 善き行いをする人も、 随分と少なくなってきているのであろう。 それは、 次の世代が、 正しく生き残れるための教材が、 足りないということを意味するのである。

 最後に、 提案がある。 せめて次の時代に負の遺産を残さないためにも、 まず私達、 環境のデザインというものを生業とする者が、 できるだけモノ(物質)を創らずに(創造の名を冠した安易な建設を行わない)、 文化、 芸術の質を高めることに努力すること。 そしてやたら技術(how to)の開発に走るのではなく、 その前提となる、 人間に善き行為を促す美しい環境とはどのようなものかの哲学(what)の探求に努力すること。 そして、 今わずかに残されている美しい環境(自然と文化的環境を含めて)を、 次世代のための貴重な教材として、 壊してしまったものも含め、 今からでも修理して残していくこと、 以上を義務として自らに課すことである。

 

(平成12年11月2日、 都市環境デザイン会議主催のフォーラムでの議論の糧に)

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