「自我という不思議な現象」の起源を訪ねる書物のなかで真木がこう書いたとき、 「われわれの身体」として心に思い浮かべていたものは単に人間の身体だけではなかったはずである。 原核細胞の発生から真核細胞の誕生を経て、 多細胞生物の発達にいたる生命進化の全過程の結果として、 この地球に共生することになったあらゆる生命の「身体」が脳裏にあったにちがいない。
生命の進化が、 R。 ドーキンスのいうように自己の複製だけに関心を払う「利己的な遺伝子」たちがたまたま犯すミスコピーと、 そうして生まれた新種の遺伝子との競争と淘汰の結果に過ぎないにしても、 その派生的な結果として現れた同種や異種のあらゆる生物達はたがいに作用し合う「誘惑の磁場」を形成し、 そうした磁場の広がりとしてこの地球環境は存在している。
木々の梢を飛び交う鳥たちのさえずり、 風にそよぐ花々に舞う昆虫の群れ、 熱帯の珊瑚礁に集う魚達、 自然の生態系はわれわれを心地よく酔わせる美しさと魅力を秘めている。 生態系を構成するそれぞれの生物もまたそこに引き寄せられて居場所を占めている以上は、 われわれが心地よさとか魅力と呼んでいるものに等価な何ものかが「誘惑の磁場」として彼らにも作用しているはずである。
その等価な何ものかは、 不思議なことにわれわれの感覚から遠く離れたものではない。 「クジャクやゴクラクチョウにとって美であるような色彩が、 人間にとっても〈美しい〉と感じられることは、 本当におどろくべきことである。 ある部族で魅力ある男性や女性の形質とされる、 人工的に巨大化した下唇等々の文化的諸形質をわれわれは少しも〈美しい〉とは思わない。 つまり人類自身の文化間の美意識の距離よりも、 これら鳥類の美意識との距離が小さいということは、 考える程、 驚愕すべきことだ。 昆虫を誘惑する花の色彩や匂いの〈美しさ〉=これら節足動物とホモ・サピエンスとの美意識の符号という神秘もそうだ」(真木:前掲書)。
フロイトやユングらの深層心理学は、 人間の心もまた意識されている層の下に広大な無意識の層が広がっており、 意識は氷山の一角に過ぎないことを教えている。 誘惑の磁場が生物一般の無意識の層に作用するものであるとすれば、 それは人間の無意識の層にも作用していると考えるのが自然である。
実際、 樹林の発散する「テルペン類等のなかには、 治癒、 強壮、 生長、 敏活化等々の作用が実験的に検出されている」といわれる。 森林浴におけるいわゆる「大気のビタミン」であるが、 われわれはこれを直接意識することはない。 われわれの意識はただすがすがしいとか心が洗われるようだとか漠然と感ずるだけで、 知らず知らずのうちに元気を取り戻しているのである。
E. ホールが「隠れた次元」等といい、 C. アレグザンダーが「無名の質」等というのも、 生態系や文化のシステムをも含む空間や環境の持つ様々な誘惑の磁場が、 人間の意識以上に無意識の層に作用する側面が強いことを示すものといえよう。
自我にとっての環境とはもっぱら意識の対象として把握される限りでの環境であるが、 自己にとっての環境は、 われわれの意識にも無意識にも共通に作用する誘惑の磁場としての環境である。 もしユング派の人々がいうように心の安定性と全体性を獲得する自己実現の過程には、 自我が自己とのつながりを確保することが含意されるのであるならば、 誘惑の磁場としての環境は自己実現にとって計り知れない意味を持つにちがいない。 意識にも無意識にも共通に作用する誘惑の磁場としての環境は、 自我と自己をつなぐ重要な回路をなす筈であるからである。
古来、 自己実現を願う求道者の多くのが、 旅にさすらい深山幽谷にこもったのも、 まさに「他なるものたちの力の磁場に作用され、 呼びかけられ、 誘惑され、 浸透されてあることの戦慄」を経験するためではなかったか。
環境デザインの目的をつきつめて考えれば自己実現に資することにあるように思う。 もちろん環境さえととのえば自己実現ができるなどというわけではなかろうが、 環境のありようが自己実現に深く関係しているであろうことは上記のことからも明らかである。 「うん、 これだ」と、 心の底から納得して言えるような「生」を生きることを誰もが望んでいる。 そうした「生」を可能にする条件のひとつとして誘惑の磁場としての環境がある。 環境デザインを志すものにとっての「環境共生」の意味は、 さしあたりこんな風に捉えられるのではないかと思う。
ところで、 もっぱら自己複製に専念する「利己的な遺伝子」がその派生的な結果として魅力的な生態系の世界を生んできたとすれば、 現代都市の魅力の大部分は自己増殖に余念のない「利己的な資本」が派生的に生み出したものといえるだろう。 都市空間を彩るさまざまな姿形の建物や広告塔やネオンの群れ、 その中にあふれる多様な商品やサービスの集積、 それらがいかにひとびとに魅惑的に見えようとも、 それらの背後には冷厳な「利己的な資本」の論理が貫徹している。
「利己的な資本」という人工物の創出自体もまた、 人間という乗り物に宿った「利己的な遺伝子」の延長された表現型のひとつに過ぎないが、 「利己的な遺伝子」に支配された自然界がそのあらゆる魅力と美しさにもかかわらず残酷で凄惨な生存競争の修羅場でもあるのと同様に、 「利己的な資本」に支配された社会もまた華やかさの影にさまざまな欠陥と悲惨を伴っている。
20世紀という時代は、 資本の原理に基づかないもうひとつの社会のありかたを追求する壮大な実験の果てに、 「利己的な資本」が相対的にはよりましな社会の基盤であるらしいことを学んだ世紀であった。 そしてまた、 数世紀におよぶ自然征服の努力の果てに、 「利己的な遺伝子」の支配する自然の意味を悟りはじめた時代でもあった。
環境共生と都市デザインの問題は、 一方では「利己的な遺伝子」と、 他方では「利己的な資本」と、 人類がこれからどう付き合ってゆくのかという巨大な問題群のひとつに還元される。 まじかに迫った21世紀はまさにこの点での人類の叡智が試される世紀になるのであろう。
誘惑の磁場と環境デザイン
関西大学
丸茂弘幸
1 誘惑の磁場
「森や草原やコミューンや都市の空間でわれわれの身体が経験しているあの形状することのできない泡立ちは、 同種や異種のフェロモンやアロモンやカイロモンたち、 視覚的、 聴覚的なその等価物たちの力にさらされてあることの恍惚、 他なるものたちの力の磁場に作用され、 呼びかけられ、 誘惑され、 浸透されてあることの戦慄の如きものである」(真木悠介『自我の起源』)。
2 磁場における意識と無意識
人間は、 美しい風景や魅力的な場所などとして、 環境をしばしば対象化して意識することがある。 しかしおそらく人間以外の生物は誘惑の磁場としての環境を対象化して意識することはないのであろう。 生物一般に関する限り誘惑の磁場は無意識に作用する力として存在している。 食物を得られる場所、 異性を確保できる場所、 安全な場所、 居心地のよい場所、 等々を鋭敏に、 しかし無意識的に感知して行動するだけである。
3 自己実現と環境
周知のようにユングは意識の中心としての〈自我ego〉と、 意識と無意識を包含する心の中心としての〈自己self〉とを区別している。 そして、 ユング派の考えによれば「われわれの自我は、 心の奥深く存在する自己とのつながりを確立し得たときにのみ、 その安定性を得られる」(河合隼雄『母性社会日本の病理』)のだという。
4 都市という磁場
冒頭の引用文は、 森や草原に続いてコミューンや都市の空間を磁場の例示としてあげている。 人間の身体にとって最も濃密な磁場はもちろん人間自身が互いに作用しあう都市という磁場である。
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