1 チェルベッラーティによるボローニャの町並み保存のプロジェクト |
これは一般に「社会的保存」と呼ばれています。 1960~1970年代のイタリアで出てきた手法で、 街区をまるごと公営住宅として建替えるといったものです。
もちろんそれ以前も「文化財建造物の保存」には先ほどお話したトリンカナート女史をはじめ建築史の先生方が取り組んでおられましたし、 建造物の修復技術はどんどん発達しており、 歴史的建造物を文化財としてきちっと保存していく方法は既にありました。 しかし、 マイナーな建築の集合体である「都市」あるいは「地区」というものの「保存」に関しては、 個々の建造物の積み上げでしかない、 という程度にしか理解されていなかったのです。
それを彼は、 街区単位に一つの事業として一気に再生するという手法をボローニャの計画で示したのです。
これは、 第一に技術的に画期的でした。
簡単に言うと、 市が用地買収して修復できるものは修復し、 できないものはRCで建替えるというものです。 その建替の際に、 歴史的な町並みの雰囲気を再生するためにティポロジア(類型学)という民家調査による建物の類型化を参考にしています。
このアイモニーノは、 類型学をうまく使っていました。 チェルベッラーティは演習に駆り出された学生と一緒に、 アイモニーノが図面を指しながら「ここはティポロジアがこうなっている」とか「進化の過程がこう読める」とか分析して行くのを見ていたわけです。 アイモニーノは非常に図面にこだわる人でした。
彼ら以外にもフィレンツェにはカニッジャ(Caniggia)という大先生がいました。 私もご本人にティポロジアの説明を受けた事があるのですが、 この人はもっと立体的な建築を対象に類型化するんです。
窓の形とか柱梁の形とかを見ながら「これは多分12世紀頃だ、 これは13世紀頃だ、 ここに【石きり】の跡がちょっと見えるだろう、 きっとこっちの方に行くと、 柱の跡があるに違いない」という調子で、 行ってみると本当にあるんです。 それはカッコ良くて、 建築というのはこうやって解いていくのかと、 ものすごくワクワクしました。
このように鮮やかな建築史を現場で語る、 図面から語り起こすということを1960年代の終わりから1970年代に、 イタリアの先生方はやっていたのです。
さて、 その頃チェルベッラーティはまだ28、 29歳でしたが、 皆と違ったのは彼がボローニャの共産党青年同盟の書記長だったことです。 その頃もう市議会議員になっていて、 イタリアの自治体制度の仕組みでいう都市計画担当参事(局長)でもありました。
実はボローニャでは、 彼より前に、 彼の本筋の先生であるベネーヴォロ(Leonardo Benevolo)が学生を使って悉皆調査をしていたのですが、 彼の描いた図面からはアイモニーノのように躍動するような街の歴史が浮かびあがってこないので、 チェルベッラーティは行き詰まっていました。 しかしアイモニーノのティポロジアに触れ、 その手法を読み替え、 ティポロジアの手法を使えば建替えてもいいんだ、 と考えるようになったわけです。
また共産党員らしく「この地区の社会的類型を重視しよう、 ここに住んでいる人を動かすことなく、 庶民の暮らしをそのままに守って行こう」と言い出したのです。
つまり八百屋は八百屋のまま、 肉屋は肉屋のままそこに住んでもらって、 その上の狭い住宅に住んでいる人達もそのままそこに暮らしてもらうという事をやったのです。
事業は、 チェルベッラーティの言葉を借りれば「ちょうどタンスの中身を整理するように」、 つまり一つのタンスを開けて中身をうまく収めてできた隙間に別の引出しから新しく物を詰めるように、 整理してできた空間に新しい入居者を入れるという方法で行なわれました。
新しい入居者は低所得者や高齢者であり、 ボローニャ大の学生でした。 完成した1970年代から80年代には世界中から視察にやって来ました。 これが大変有名なボローニャ方式と呼ばれるやり方です。
ところが、 残念なことにこの方式はサン・レオナルドとソルフェリーノの2地区だけに留まってしまいました。 ボローニャ以外ではパレルモやナポリなどの南方の街で、 ベネーヴォロ、 チェルベッラーティのコンビが今でもコツコツやっていますが、 あまり成功したという話は聞いていません。
何故かというと、 お金がかかりすぎたんです。
チェルベッラーティがやり出した頃はまだまだチェントロ・ストリコ(Centro Storico:歴史的都心部)の地価が安かったのです。 当時、 住宅の郊外化が進み、 都心が貧窮していました。 だからこそ、 都心に市営住宅をつくることが出来ました。
ところが、 この事業が成功し始めた70年代後半から80年代にかけて、 都心ではジェントリフィケーションが起こります。 つまり都心の地価が上がり、 店舗や高額所得者が都心に戻ってきたのです。
イタリアでは歴史的都市部で都市計画基準や厳しいデザイン規制に則って進める、 ボローニャ方式と似たような事業はたくさんありますが、 そのほとんどは民間の工事です。 つまり民間の工事が、 行政と同じように歴史的町並みを作っているのです。 しかし、 そこに住んでいた人たちに住みつづけてもらおうという社会的保存の側面は一切ありません。
2 ボローニャの85年の都市計画図 |
3 オレンジ色が保存対象となるマイナーな建築物 |
写真3も85年の都市計画図からとったもので、 赤が宗教建築、 オレンジが保存対象になるマイナーな建造物が集まっている所です。 このほとんどが民間工事で行われています。
ボローニャの市街地では、 72%の建物が過去に何らかの修復を受けています。 つまり膨大な額の民間投資が行われ、 民間主導で事業が進められているというわけです。