6 ローマの盛り場の変遷 |
ローマは昔から大きくなったり小さくなったりを繰り返していた街で、 「保存」を始めたのは実はつい30年ほど前からのことです。 それまでは街をどんどん改造していたのです。
戦後に建てた物を見ると、 いかにも安普請という印象を受けてがっかりされると思いますが、 最近も「30年ぶりのローマの街壊し」と話題になっている事があります。
今年、 ローマはジュビレオ(Giubileo:大聖年)の年に当たり、 それをきっかけに都市の大改造をしています。 その一環で「乳飲み子イエスの病院」の下に地下5階の駐車場を造り、 そのかわり観光バスの街への乗り入れを規制しようとしています。 地下にはもちろん考古学的遺跡がたくさんあるので大問題になりました。
日本の観光業者が猛烈に反発し、 今は日本の観光バスだけ街に入れても良い、 なんていう妥協策が出ていたりします(笑)。 それは冗談として、 つまり観光客がこの盛り場の変遷に大きく関わってきたわけです。
例えば、 スペイン階段は戦後の盛り場です。 あの有名な「ローマの休日」がきっかけで有名になったのですが、 映画をよく見ると当時あの周りには店がほとんど無いことがわかります。 当時の盛り場といえばトレビの泉だったんです。 しかし同時にトレビの泉は観光地であって、 ローマっ子達が実際買い物に行くのはナツィオナーレ通りでした。
このように業態や業種の変化、 商業のあり方が変わってくる中で、 盛り場の場所もどんどん変わってきたのには、 理由があります。 例えばナツィオナーレ通りのような広い通りは、 19世紀末から20世紀にかけて整備されたのですが、 明らかにモータリゼーションに対応して造られた大きな街区や道路で、 デパートがよく似合います。 しかしそのようなデパートを他の地区に出そうとしても非常に難しいのです。
例えばヴェネト通りですが、 ここは現在アメリカ大使館や高級ホテルに使われているようなパラッツォ建築が19世紀中頃に建てられています。 しかしこの辺りの建物は大規模なホテルやオフィスむきですが、 ブティックとしては使えません。 ブテッィクは住宅を借りるくらいの安い値段の小ぶりな不動産物件があって、 そこを改造して店舗にできる地区で広がります。
東京の青山や原宿でもブティックが広がりましたが、 その後、 日本ではジェントリフィケーションとともに建物の形まで変わってしまいました。 それに対して、 建物の形を変えなかったのが30〜40年前のイタリアです。
したがって、 イタリアでは建物の形でその地区の盛り場としての性格が決まってしまうのです。
実は、 ローマで業態が変化するのに並行して、 今の都心にどういう人達が暮らしているか、 あるいはこの中で都心の商業者がどういう風に変わって行ったかという事を考える必要がありますが、 それは本を読んでいただくこととして、 ここでは省略します。
地区ごとに決まる盛り場の性格
さて、 ローマの盛り場が変わっていく中で、 そのデザインの好み、 建物に対する好みも随分変わってきました。 例えば、 ナツィオナーレ通りが流行ったのはデパートのような大規模小売店舗が全盛期だった頃ですし、 スペイン階段はブティックの全盛期に栄えました。 そして今、 若い人達がコミュニティビジネスやコンピューターショップ、 ディスコ、 創作料理店などの新業態をやっているのがトラス・テーベレです。
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