イタリアの景観デザインと商業政策
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イタリアのまちと日本のまちが決定的に違うのはなぜか

京都造形芸術大学教授 井口勝文

 

改行マーク私がイタリアに行ったのは70年代で、 まさに変わっていくイタリアの都市の渦中にあったわけで、 今のお話を聞きながら身につまされるところもありました。 私もイタリアが好きで何度も行ったり来たりしていますが、 見るだけでは分からないことを、 宗田先生が深いところまで語ってくださいました。 先生の著書「にぎわいを呼ぶイタリアのまちづくり」にはその辺が実に詳しく紹介されていて、 私達が読めないイタリアの法律についても触れていますので、 みなさんも是非読んでみて下さい。


根本的に違う日本とイタリアのまちづくり

改行マークさて、 今日のお話の最後に宗田先生は、 市場原理と都市の保存、 都市再生について触れられました。 市場原理を専門家が理解していないという指摘はおっしゃるとおりだと思います。 私は都市開発の仕事を民間の会社で長くやってきたわけですが、 体験から言うと市場原理に振り回されたという感が強いのです。 こいつらに振り回される限り、 ろくな街は出来ないと思いながら仕事をしてきました。 そういう目でイタリアの街を見ると、 宗田先生のお話とは逆の面を強調することになるのですが、 イタリア人は市場原理だけじゃない、 私達が持っていないもうひとつ別の原理を持っていると思われてなりません。

改行マーク宗田先生のお話を否定するのではなく、 同じことを私なりに別の見方からお話ししてみたいと思います。

改行マークなぜイタリアと日本のまちづくりはこうも違うのか。 お金だけに振り回されてあのような美しい街ができるはずがない。 特に中心市街地の活性化に絞って考えてみると、 町に何を求めているのかというところに根本的な違いがあるようです。

改行マークまず、 「中心市街地活性化」と言うとき、 日本では中心市街地に人を集めたいと考えます。 そのために、 魅力を高めたい、 魅力とは商業のことだ、 だから商業を活性化しなければならないという論法になります。 そこで誰が中心市街地に人が来て欲しいと思っているのかというと、 それは商業者です。 だから、 商業者のための中心市街地活性化になるのが日本のパターンです。

改行マークイタリアの場合はどうなのか。 まず、 人びとに中心市街地へ行きたいという思いがあるのです。 だからイタリアでの中心市街地の課題は、 誰かが人を「呼びたい」というところから始まるのでなく、 人々が「行きたい」というところから始めるのです。 行くからには、 そこは魅力的であって欲しい。 しかし、 私が行った70年代には都心、 特に地方都市の都心はどんどん寂れていってました。 例えばコルレ・ディ・ヴァルデルサ、 サン・ジミニヤーノなど、 五百人、 千人単位の地方都市ですね。 人口流出です。 ですから、 都心を魅力的にする総合的なまちづくりをそこで行わなければならなくなったのです。 都心に行きたいのは全市民の希望ですから、 中心市街地の活性化は全市民的な課題になるのです。 その方法は一言で言うと、 文化政策でした。 商業はその要素の一つに過ぎなかったと思います。

改行マークこれがイタリアと日本のまちづくりの根本的な違いです。 日本で市場原理に振り回された私が、 イタリアの中心市街地活性化政策を見て、 商業の活性化はその手段のひとつに過ぎないと思ったわけですが、 本当にそうなのかをスライドで見ていただきましょう。


スライドで見るイタリアのまちの変遷

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カレンツァーノの遠景(1971年)
改行マークフィレンツェ郊外のカレンツァーノという町です。 元は60家族しか住んでいなかったのですが、 その周辺、 丘の下に市街地が形成されて、 今は1万3千人ほどの人口になりました。 この写真は1971年に撮ったのですが、 その頃は回りに畑が広がっていました。 ただし、 その頃でも工場は進出していて、 この後どんどん増えていきました。

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カレンツァーノの遠景(1995年)
改行マーク1995年になると、 山の足元には新市街地と工場が大きくひろがっています。 イタリアでも非常に重要な工業地帯のひとつで世界的に有名な繊維工場と家具工場があります。

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カレンツァーノの旧市街地(1971年)
改行マーク山の上の旧市街地です。 これは昔のお城の城壁で、 ここがもともとのまちの中心地だったのですが、 見てのとおり見捨てられた広場です。 1971年のころです。

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カレンツァーノの旧市街地・修復が始まっていた(1995年)
改行マーク少し修復された様子がうかがえる写真です(1995年頃。 年代を入れて下さい)。 手前が広場になっていますが、 全くの荒れ地で舗装もされていません。 しかし、 市役所に行って話を聞くと、 これから舗装をやり直すし、 広場にむき出しになっている変圧器も地下に埋めるということでした。

改行マーク市役所もすでに新市街地に移り、 人が集まる広場としてはすでに見捨てられたというのに、 なぜ古い街をそこまで修復整備するのか。 それは、 市街地としての機能は失われたものの、 歴史的な広場は彼らにとってなくてはならないものだからです。 彼等の文化のアイデンティティなのです。 日本人にとっての城下町の天守閣のような存在ということでしょう。

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サンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノ
改行マークここはサン・ジョヴァンニ・ヴァル・ダルノというフィレンツェから60km離れたところにある町です。 左に高速道路、 右に鉄道、 中央にアルノ川が走っています。 一面に見える市街地は全部住宅と工業地帯で、 写真ではもう分かりませんが、 旧市街地がその中にあります。 新しい市街地に古い街が呑み込まれた形になって、 どこからが歴史的都心なのか分からなくなっています。

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サンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノの歴史的都心
改行マークその歴史的都心を真上から撮った写真なのですが、 よく見ないと分かりません。 長方形の広場の中心に、 昔の市役所の建物があります。 1295年頃にアルノ・ディ・カンビオが設計したと言われるものです。 それ以外の建物は3階建てで、 グリッド状の道路が通っています。

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サンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノ(1970年頃)
改行マークここは1300年頃にフィレンツェによって建設されたニュータウンですが、 やはり歴史的都心のひとつです。 1970年代の道路の様子です。 アスファルト舗装で、 このように自動車に占拠されています。 かなり厳しい都心の状況ですが、 この街を市民が見捨てようとしているという印象は、 その当時でもありませんでした。

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サンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノのまちはずれ(1970年頃)
改行マーク歴史的都心のすぐ外側に大きめの空き地がありました。 平日は駐車場ですが、 土日になるとマーケットが開かれるという使われ方をしていました。 歴史的な都心とは言え、 誰もその観光的価値は認めてない街ですから、 観光客は全く訪れないここの住人のための生活のための市場です。

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同じところの最近の様子

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同じところの最近の様子
改行マーク同じ所をつい最近写真に撮りました(1995年)。 アスファルトの道路から石畳の道路に変わっていました。

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メインストリートの土曜市
改行マークまた、 まちはずれの広場で開かれていた土日のマーケットを、 メインストリートの石畳の道の方に移しました。 町中で開かれるようになってからは、 以前に増したにぎわいです。 そして町の人が誇らしげに言うのは「この方が美しいだろう!」です。

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サンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノのティポロジアカルテ
改行マーク宗田先生のお話でボローニアの例がありましたが、 このサンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノでも古い建物をひとつずつ修復しています。 ここでも類型学による再開発をすすめています。 日本で言う区画整理事業(不整形な土地を整形になるよう町を整える)のようなことを、 建築群の中でやっていると考えればよいでしょう。

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修復された街並み
改行マークこういう風に新しく直していきました。


最後に―活性化の決め手は商業ではない。
街を楽しむことだ

改行マークローマやフィレンツェのように市場原理が直接観光収入にひびく大都市ではなく、 観光客の来ない小さな町でも中心市街地が修復されているという例を見ていただきました。 つまりイタリア中で、 歴史的都心のレスタウロがされているということを言いたかったのですが、 それを動かす原動力はやはり市場原理だけでは説明できない。 都心に行きたいという市民の希望が背景にあると思うのです。

改行マークでは、 日本の都心はどうなのかを最後に触れたいと思います。

改行マーク実は私、 岡山市で歴史的都心の整備計画をしたことがあります。 いろんな仕事をした中で、 一番自慢したいのがこれです。 17年前になりますが、 岡山市の表町商店街の再開発計画に関わったときのことです。

改行マーク岡山市は城下町のエリアがきれいに残っているので、 歴史の都心をテーマにしてはどうですかと提案したのです。 うまい具合に市長の意向とがっちり合い、 1984年から3年間の事業ということになって「岡山の文化的シンボルゾーン」と名付けて整備しました。 行って見ていただくと、 それなりに楽しい街が出来ています。

改行マークどういう風に整備したかですが、 3つの方針を立てました。

改行マーク対象のゾーンをはっきり決めて、 集中的に事業を行うという提案でした。 私は文化的シンボルゾーン(歴史的都心)を定めてマスタープランを策定すること、 (3)の歩行者ネットワーク作りを担当しました。 3年間の事業ですからイタリアのような密度の高い仕事には及ばないのですが、 それでもこの仕事をしたことが私の自信になりました。

改行マーク日本の中心市街地活性化も商業提案だけではなく、 文化シンボルゾーン整備だととらえてはどうでしょうか。 生活を楽しむための文化事業だとはっきり認識して進めていけば、 宗田先生のイタリアの話もその中で随分と活かせるだろう、 参考になるだろうと思いました。

改行マーク少し長くなりましたが、 これで私のコメントを終わります。

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