江川(現代計画研究所):
和歌山県の御坊市で、 平山さんと一緒に、 7年ほど改良住宅の建て替えをやっています。 賃貸公営住宅の建て替えをコーポラティブでやるという画期的なものです。 住民それぞれの希望を聞きながら、 議論を重ねてプランニングを進めています。
それまでの公共住宅は誰が入居しても良いように標準的なプランニング(別の言い方をすると管理しやすく整理された空間)だったのですが、 そのためもあって、 周辺の住宅地からどんどん浮いていってしまい、 結局、 スラム化してしまったのです。 しかもそのスラム化が住環境だけでなく、 生活面にまで及ぶようになってしまたのです。 というわけで、 ここでの公共住宅の建て替えは、 住宅や環境だけの問題だけではなく、 人の生き方の問題であるように思っています。
住民と話し合いながらプランニングを進めていくなかで、 はっきりと定義できない空間をいっぱい創りました。 つまり、 誰のものか分からない空間で、 その空間が住宅に付随しているものなのか、 それとも通る人のものなのか、 そもそも誰が管理すべきなのかも分からない。 その空間を見ただけでは、 「こうなっているから、 管理するのはこの人だ」と整理できないのです。 平山さんはそういう空間に意味があるのだとおっしゃっていますが、 その辺をもう少し説明していただけたらと思います。
平山:
今までの話の繰り返しになりますが、 「明快なもの」は危険じゃないかという気がするのです。 「純粋に定義づけられた空間」は分かりやすいのですが、 どこかに嘘があるように思います。 もちろんぐちゃぐちゃなままが良いとは思いませんが、 複数の考え方に対して開かれている空間、 そんな余裕を持った空間がパブリック・スペースではないかと考えています。
これは、 いわゆる多様性とか共生といった考え方ではなく、 むしろ競合するといった考え方だろうと思います。 複数の考え方が競合できる空間が、 公共空間ではないかと私は思います。
江川:
植物学者の先生の言葉ですが、 「生態学的最適条件(生きていくために一番良い条件)と生理学的最適条件(気持ちがいい条件)は違う」というのがあります。 生態学的最適条件とは滅びないための条件ということなのですが、 競争・共存・我慢ということです。
植物の世界ではいろいろな種が共存して一つの世界を作っていますが、 共存していく前には種同士のせめぎ合いがあり、 それが一番重要なんだということです。 他を排除して一人勝ちしたり独占していく方向は、 実は自分が破滅していく方向につながるのだと私は理解しているのですが、 公共空間もそれと似たようなものだと考えてよろしいでしょうか。
平山:
私は以前、 「合意形成批判」という論説を書いて、 みなさんに怒られたことがあります。 まちづくりの過程で合意形成が一番大事なのに、 それを批判するとは何事かとみなさんはおっしゃるわけですが、 私は完全な合意が形成されるということは現実にはないだろうし、 もっといえば、 あってはならないと考えています。 何らかの意見にまとめないとプロジェクトが進まない、 という発想は分かるのですが、 明快な定義に向けて合意を絞っていく発想は良くないと思います。
むしろ住民参加で大事なのは、 それぞれの意見の違い、 差異を明らかにしていくことじゃないでしょうか。 江川さんが紹介された一人勝ちではなく、 せめぎ合っている状態ということに通じるかもしれません。
「誰のものか分からない空間」の意味
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