小浦(大阪大学):
以前、 雑誌の特集で公共空間について調査したとき、 在阪領事館の人たちに「パブリックとは何か」を聞く機会がありました。 多くの人たちが「パブリックはコミュニティを前提とするもの」という意見を寄せていました。 つまり「私」という個人がまずあって、 「私」は地域コミュニティに関わるものとしてパブリックが必ず存在するということです。 ドイツの人などは、 かなりそのことを強調していました。
先ほどの江川さんのお話に出た「競合的な環境」は都市の公共性の基本的状況だと思います。 また、 それはコミュニティの中でも同じだと思うのです。 いずれの場合も環境を共有していくための共生のルールがあるのだろうと思います。 そのルールには何となく折り合う暗黙のルールと、 きちんと法的に整備されたルールがあると思いますが、 平山先生はパブリックの前提となるルールには、 どのようなものが関わってくるとお考えですか。
また、 私は以前ロスの再開発を見に行ったとき、 小さなコミュニティですが、 BIDとCDCが一緒にやっていこうとしているのが興味を引きました。 BIDは、 法的な位置づけがあり、 行政の復興事業と役割分担しているのですが、 ヒスパニック系のコミュニティの住宅再建については住宅CDCがサポートしていました。 BIDを運営するNPOが地域環境改善の展開において、 住民と話をするように努力していました。
平山先生はBIDとCDCは対立しがちだと言われましたが、 BIDもCDCも安全や良い環境を求めるという目的は一緒です。 基本は対立する概念ではないのではないかと思います。
平山:
コミュニティとパブリックのありようはケースバイケースだと思います。 コミュニティを前提とした場合、 コミュニティのベースが人種なのか言語なのか、 あるいは学歴なのかによって話が全然違ってきます。
コミュニティが閉じられていた場合、 安定したコミュニティを求めることはあり得るでしょう。 先ほど紹介したように、 ヒスパニック系コミュニティに黒人が入ろうとした例では、 コミュニティは安定を求めて閉ざそうとしたわけですが、 裁判所は憲法に基づいて「コミュニティをパブリックに向かって開け」と命令したわけです。 命令に従って開いた時、 摩擦が生じてくるわけで、 コミュニティとパブリックの境界は複雑で難しい問題を含んでいます。
BIDとCDCの関係も、 小浦さんがみたロスのようにうまくいっているところもあれば、 ニューヨークのように対立しているところもあるわけです。 コミュニティとパブリックの境界が安定しているのか、 それとも強引に突破した時にどうなるのかを観察していく必要があると思います。
パブリックは何を前提とするか
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