私がナショナル住宅に入ってもう30年になりますが、 入ってすぐの頃は「家を建てる」ことに仕事の意義があると思っていました。 家不足の時代ですから、 家を供給することが世のため人のためだと、 とにかく一生懸命顧客夢を実現する家をつくっていました。
ところが、 昭和55、 56年頃だったでしょうか。 石油ショックが昭和50年ぐらいですから、 その数年後ですね。 会社から「ナショナル住宅が所有している滋賀県の近江今津の500区画が全く売れない。 君がチーフとなってなんとか処分を考えろ」と言われたんです。 近江今津は滋賀県でもかなり奥の方です。 もう家を作るだけでは売れる時代ではなくなっていたのです。
その時初めて、 ハウスメーカーは何をしたらいいんだろうと悩みました。 ちょうどその頃、 延藤安弘先生が『計画的小集団開発』(学芸出版社)を発表されたり、 住宅生産振興財団が「まちづくり」をテーマにしたり、 建築家の人たちも住宅団地の景観や公営住宅によるまちづくりについて問題提起をしていました。 私も一生懸命家を作っているだけでいいのだろうかと思い始めたのです。
そして意を決して、 (財)住宅生産振興財団の竜王団地を指導しておられた東京の現代計画研究所の藤本昌也先生のアトリエをお訪ねしたのです。 で、 「私はプレハブメーカーに勤務していて、 プレハブメーカーに対する社会的批判があることは承知しているが、 私は今後どうすればいいんでしょう」とご指導を仰いだんです。 先生はいろいろとお話しして下さったのですが、 実を言うと、 その時は難しいことを言われるな、 という感想でした。 ただひとつ私が理解できたのは、 「一人一人のお客の要望を聞いていくだけでは、 大きな会社のやる事じゃないよ。 やはり、 地域の景観や社会的資産となるような住宅群を考えなくては」というアドバイスです。 そのアドバイスが、 私の仕事の価値観を大きく変えたようです。
その後、 近江今津の500区画は、 かなり思い切った街並みにして、 大阪の人に「滋賀県に来ませんか。 景観がかなり違いますよ」と売って回りました。 これはある程度評価されたようで、 完売することができました。
この体験は、 これ以降の私の仕事の意味を決定づけたように思います。 例えば、 都市計画・地方開発といった、 大きな視点からのまちづくりを語る人は多く、 身近な戸建て集住体としてのまちづくりを考える人はあまり見かけませんですから、 これこそ私の天職だと思ったのです。 身近な住環境を少しでも良くしていきたい、 そんな決心をしたのが今から15年ぐらい前のことです。
ところが、 この決意が会社では全く理解されなかったのです。 ナショナル住宅に限らずどこのハウスメーカーも、 個々の注文住宅を売るのが仕事ですから、 そうしたまちづくりの視点から考える発想なんて誰も持っていませんでした。 「まちづくりなんて、 行政のやることでしょ。 僕らの仕事じゃない」とよく言われたものです。
さて、 どうするか。 多勢に無勢ですから、 社内で私一人声を大にしても誰もついてきてくれないし、 そのうち私が持っていたチームも解散命令が出て、 私一人に東京への転勤命令が出てしまいました。 でも、 クソ生意気にも東京へは行かず「私のやることは、 きっと会社にとってもいい結果になるはずです」と頑張り続けたんです。
結局、 私は悟りました。 社内で評価されないんだったら、 外部、 世間から評価されるようにすればいい。 そこで次々とコンペに挑戦することにし、 今まで28カ所で賞をもらうことに成功しました。
こんなふうに3回も賞をとると、 会社の方もだんだん注目してくれるようになりました。 「そんなにまちづくりが必要だと思うなら、 会社が資本金を出すからまちづくり会社を作ってみるといい」と言ってくれまして、 E & A設計という株式会社を社内で立ち上げることになりました。 と言っても、 社内にスペースをとっただけの会社です。 E & Aという名称は、 エンバイロメント&アーキテクチャーの略で、 環境と建築の融合を目指したいという思いを込めたものです。 こうしてナショナル住宅に在籍しつつも、 まちづくりにこだわる会社の代表として仕事をしてきて、 今年で8年になります。
しかし、 まちづくりはハウスメーカーにとって儲けになるかと言われると、 あまりならないと言わざるを得ません。 よく「それが商売になるのか」と言われますが、 私はハウスメーカーの中にまちづくりの文化を定着させたいという思いで仕事をしています。 他のハウスメーカーでは、 バブル崩壊後はまちづくり部門は解散したという話も聞きますし、 ことさら外部からの評価を受け続けないと、 まちづくり部門は維持できないと思っています。
ですから、 学生さんがハウスメーカーの中でまちづくりをやりたいなら、 本当に強い意志を持って組織の異端児になる覚悟がないとだめだと思います。 もちろん、 いいまちを作りたいという思いは誰にも反対できない、 良いことです。 しかし、 組織の中で「早く出世したい」とか「みんなから置いてけぼりを食らうのはいやだ」と思うようでしたら、 ハウスメーカーでまちづくりはできないのです。 そうじゃなくて「都市デザインの仕事をしたい」という強い意志を持ち、 「いいまちを作ることこそ私の使命だ」と誇りを持っていれば組織の中で認知されると思います。
ただ、 直接会社の利益につながる仕事ではないので、 ハウスメーカーの社長(?)になることはないでしょう。 会社をあげてまちづくりに取り組むのは、 経営を考えたら無理なことだと思います。 しかし、 まちづくりが社会のためになるということは会社も評価してくれますので、 会社の中に自分の領域を作ることは十分可能です。
私の仕事場確保のプロセス
価値観が変わったきっかけ
では次に、 私がこういう仕事をやるようになったプロセスを紹介します。
コンペを勝ち抜く
昭和58年にまちづくり設計競技で特選をとり、 建設大臣賞をいただいたのを皮切りに、 63年には愛知県の県営団地のコンペで同じく建設大臣賞をもらいました。 平成2年には大阪府の河内長野の木戸団地で環境共生住宅のモデルコンペがあり、 これは戸建てではなくRCの500戸の中高層団地でしたが、 そこでも特選の建設大臣賞をとりました。
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