都市環境デザインの仕事
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(仮称)難波再開発A-1地区建設工事

 

 先ほど岸田さんから現在進行中と紹介していただいた難波の再開発は、 今、 低層部で7〜8階まで。 高層部では20階近くまで立ち上がってきています。

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難波再開発A-1地区
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難波再開発A-1地区
 ここの再開発は、 手前を低層階にして奥の方に行くほど高層階になるという構造になっています。 いずれのビルも屋上は緑化して公園にする予定です。 全体で容積800%、 30万m2の開発ですが、 その3分の1はオフィス、 残り3分の2の段々になっている低層部は商業やアミューズメントが占めることになっています。

 建物のコンセプトとしては「緑あふれる自然『ビッグパーク』と大阪難波らしいにぎわいにあふれる都市の魅力『ビッグシティ』が重層した新しい街づくり」を目指しています。 「自然」と「にぎわい」という二つの概念は普通二律背反的なものとして捉え勝ちなのですが、 それを両方取り込んでしまおうというプロジェクトです。

 このコンセプトは、 デザインに協力いただいているアメリカのジャーディという建築デザイン事務所が提案したものですが、 いろんな議論をしながらこういうデザインにしようということになったのです。 ただ「ビッグシティ」「ビッグパーク」は正式な名称ではなく、 空間構成を表す概念だとして見て下さい。


このプロジェクトにおけるゼネコンの役割

 このプロジェクトを考えている主体は誰かというと、 企画が南海電鉄と高島屋、 監修が日建設計、 デザインが大林組とジャーディ・パートナーシップ・インターナショナルという形になっています。

 最初に申し上げたように、 私は大林組の開発企画部に在籍しています。 もちろんゼネコンには設計部もあり通常の建物の設計もしていて、 このプロジェクトでもデザイン担当として「大林組本店一級建築事務所」として名前を出しています。 では、 開発企画部は何をやったのかということになりますが、 この種のプロジェクトで開発企画部は表に名前が出ることもないし、 雑誌に名前が出ることもありません。

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難波再開発
 しかし、 お手元の資料の〈
再開発計画の経緯〉と〈A-1地区の計画業務〉に記したように、 我々開発企画部はプロジェクト発生以前から深く関わっているのです。 ただ、 これは事業主との守秘義務があり、 実際にした仕事の内容を詳しくお話しすることができません。 どこまで話していいのか迷いますが、 差し支えない部分を説明したいと思います。


再開発の経緯

 1987年にこのプロジェクトの前身である難波地区再開発事業研究会が発足しました。 その頃みなさんは小学生だったろうと思いますが、 このあたりは南海ホークスという球団が持っていた大阪球場があったのです。 それをつぶして再開発しようという話が持ち上がって、 この研究会が出来ました。

 2、 3年後にはこのあたりに土地・建物を持つ企業が集まり、 一緒に協力して再開発をしようと難波地区再開発協議会が設立されました。 顔ぶれは、 南海電鉄、 高島屋、 難波ニッピ都市開発、 クボタ、 大阪スタヂアム興業という企業です。

 その頃はバブル華やかなりし頃で、 「ビッグな開発でないと開発とは言えない」という風潮でした。 実は「ビッグパーク」や「ビッグシティ」はそこから来たんです。 ただ、 ジャーディ事務所の話によれば、 アメリカでは「ビッグ」は必ずしもいいイメージではなく「馬鹿馬鹿しくデカイ」と言うときに使う言葉らしくて、 「知性を感じさせない響きだから別の言葉にしたらどうか」とも言われたんですが、 当時のバブルの風潮に影響されていた我々としては「いや、 やるからにはビッグでなくっちゃ」と計画をスタートさせたのです。

 92年には土地区画整理組合設立準備組合が設立され、 全体の14.5haの中に22mの南北道路や公園を入れることを全員で合意するに至りました。

 1996年には再開発地区計画というまちづくりの憲法に当たるものを全員で相談されました。 当初は容積400%だったものを最高800%の容積にして、 回りには空地をとって道路を広げたり、 歩行者専用道をとること、 また街の北側は商業利用、 南側は業務あるいは住居に供しようなど、 どういう街にしていくのかの合意がなされ、 行政から都市計画決定という形で認知されました。 もちろん、 この間は行政とも相談しながら、 再開発地区計画という形で計画決定がなされました。

 そして、 99年、 一昨年になってやっと北側のA-1地区の着工にこぎ着けることができました。 当初の研究会発足から数えると着工まで15年かかっています。 その間に、 世の中の流れや業種は驚くほど変わっていきました。 ですから、 オフィス需要に応えるべきか、 いやもっと商業を入れた方がいいなど、 いろんな議論が内部では繰り返されました。

 最終的には説明した通りの業種構成に落ち着いたのですが、 そこに至までには開発企画部もいろいろ動くことになりました。 もちろん、 全ての経緯を私達が仕切ったわけではありません。 日建設計の方でメインのコンサルタントを各企業から受け、 その他にも環境開発研究所や誠和コンサルタントさんも業務を担ってこられました。

 私達開発企画部は、 個々の地主から「全体のまちづくりはこうなっていくけれど、 私達の会社はそれに乗っていいものかどうか」という、 いわば私設家庭教師のような相談事を引き受ける役割でした。 全体のプロジェクトに関わりつつも、 個々の相談にも乗るという形でつきあいをしてきました。

 なぜ、 そんなにこまめにつき合うのか。 それは、 96年以降になっていよいよ各区画ごとにそれぞれの事業主が事業を考えていく段階になると、 事業推進のパートナーにゼネコンの中から大林組を選んでもらうという運びになるからです。


A-1地区の計画業務

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難波再開発A-1地区施設配置図
 また、 プロジェクトの進行に関わる以外にも、 我々が力を注いだのが開発される地区で行われる業務の計画です。 A-1地区で我々がやった仕事は、
難波再開発A-1地区の計画業務に書いてある通りですが、 まず開発企画の立案から始まります。 この中には開発基本構想の立案からマーケット調査、 MD(マーチャンダイジング)企画の立案、 テナント予備ヒアリング、 事業のインパクトとリスクの分析が含まれます。 このあたりは、 ああなるほどと、 みなさんも大体予想はつくことでしょう。

 しかし、 この種の開発で本当に苦労するのは、 「共同事業推進のための協議会運営」という分野の仕事です。 複数の企業が一緒になってひとつの事業をやろうとするわけですから、 各企業の意見の調整は大変です。 それをまとめて協定書などの約束ごとにしていくことが必要になってくるのですが、 その調整をするのが私達の仕事になります。 この部分が、 実を言うと、 プロジェクト全体の中で一番苦労を感じる作業です。

 なんとかそれを乗り越え、 さあ実際に動き出そうというとき、 また微妙な問題にぶつかります。 A-1地区の場合で言うと、 球場に既存のテナントが入っていましたから、 まずそこから移っていただかなければいけない。 悪い言い方をすると、 追い出しとか地上げという言葉になってしまうような内容です。 実際の作業は、 そこから始めなければなりません。

 ただ私の立場からこの作業について力説しておきたいのですが、 少なくとも私達が関わったプロジェクトでは、 出て行かれた方々は移転先でちゃんと事業が再開できているし、 これを機会に商売を止めた方にもそれなりの補償をして、 新しい人生が歩めるようにしております。 感謝されることはあっても恨まれることは何一つしていないと、 私は言い切れます。 ですから、 こういう作業が巷で言われるほど悪いことではないことを分かっていただきたいと思います。

 重要なのは、 移転していく人の立場に立って、 移転できるための条件を引っぱり出していくことです。 これは苦労とも言えるし、 面白いとも言える仕事でした。 いずれにしても縁の下の仕事です。

 それ以外の業務としては、 環境アセスメントや大店立地法の関係で交通協議や近隣への説明会を行うこともあります。 また、 補助金の申請やプレゼンテーションツールの作成、 また日経新聞で2回ほどプロジェクトの広告を打っていますが、 これがプロジェクトや大林組の宣伝になるようサポートするのも我々の仕事です。 今後は、 テナントの誘致が本格化していくのでその貸し方基準も作成していくことになります。


ゼネコンはあくまで事業主のサポートである

 いずれにしても、 全ての作業は事業主のサイドへ収れんしていきます。 私達は「この仕事をやったぞ」という立場ではなく、 事業主をサポートしているというわけです。

 では、 なぜゼネコンがこういう業務をしなくてはいけないのか。 それはひとつには、 最初にプロジェクトを請け負った限りは、 出来上がるまでに必要なことは何でもやらないといけないという発想がゼネコンにはあるからです。 「分かりました。 やらせてもらいます」という言葉はそれほど重いということです。

 もうひとつの理由は、 事業主へのサポートを怠ったならばプロジェクトがよたよたしてしまい、 「そんなことなら、 事業費を10億円ぐらいまけろ」と言われかねないからです。 そんなことになるよりは、 スムーズに進めて一定の利益を確保できた方がいい。 ある面、 「利益の作り込み」という役割もあると言えるでしょう。 開発企画部は、 ゼネコンのセクションの中でも事業主に近い領域を担当しているのです。

 ゼネコンには大なり小なり、 このようなセクションがあります。 ただし、 脚光を浴びるというわけにはいきません。 先ほど増田さんが「反骨精神が必要」とお話しされましたが、 私たちの仕事も同様で誇りを持って傍流を歩むという覚悟がいります。 と言いますのも、 私達の仕事は確かに事業主の役には立っていますが、 どれだけ会社の役に立っているのかよく分からないんですね。 しかし、 事業主に喜んでもらえるなら「よし、 やってやろう」と困難を受けて立つところに、 仕事の喜びがあるような感じです。

 ひとつ注意しておきたいのは、 これは大林組の話であって、 事業そのものを会社の柱にしているゼネコンもありますので、 みなさんがゼネコンを選ぶ際には「一体自分は何をやりたいのか。 この会社はやりたいことに沿っているか」をよくよく見極めて入っていただきたいと思います。 うまくあったゼネコンで頑張ると増田さんの会社と違って、 ひょっとすると社長になれるかもしれません。 あってなければ、 誇り高き傍流で自分の仕事を見つけて下さい。

 ところで、 今後の我々の業務のあり方を考えると、 おそらく今までのような「分かりました。 何でもやりましょう」という丼勘定的な世界ではなく、 アメリカ的に契約行為として一定のフィーをもらう業務になっていくのだろうと思います。 ただ、 20数年前にそう思ったのですが、 未だに古い体質から抜け出せないことを思うと、 そう簡単にはいきそうにありません。 しかし、 世の中の流れがどんどん変わっていくことを考えると、 2、 3年で劇的に変わることもありえます。 その辺の見定めも必要になってくるかもしれません。

 最後に、 この業種の魅力を言っておくと、 私達はいろんな立場の人と出会い、 お付き合いさせていただきました。 その面白さがあります。 しかも建物を作るという行為は大きな投資を伴うので、 その意思決定が出来る上位の人たちとお付き合いすることになります。 会社の中では傍流ですが、 お話をする相手はその会社のトップばかりです。 そういう人たちでも、 大きな投資をするとなると悩まれることがあります。 その事業主さん達に選択肢を整理してあげたり、 時には「こちらの方向に進むべきですよ」とアドバイスするのが私達の仕事です。

 本当は事業主の人たちはそういうことを考え抜いて、 どうするかはほぼ決定しているのですが、 その最後の一押しをしてもらってパッと飛び立ちたいんですよね。 ですから、 格好良く言うと、 私達は事業主さんに勇気や夢を売る商売をしているのかなと思っています。 そう自分で思うことが、 仕事の支えになっています。 ゼネコンのやっている仕事の一端ですが、 紹介させていただきました。

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